オーストリア帝国の皇后エリザベートといえば、日本では世界史に詳しい人はもちろん、ミュージカルや舞台演劇に詳しい人にも名を知られている人物である。
19世紀後半に「ヨーロッパ王室一の美女」とまで称えられた女性の美容法や、美貌にかけた情熱について調べてみた。
オーストリア皇帝に愛される
1837年12月24日にバイエルン王国の公爵マクシミリアンと妻ルドヴィカの次女として産まれたエリザベートは、バイエルン州の南に位置する自然豊かなポッセンホーフェン城で少女時代を過ごした。
1853年8月16日に、エリザベートの姉のヘレーネが、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と見合いを行った。当時15歳のエリザベートは姉の見合いに同行し、その席で皇帝に見初められた。
少女時代のエリザベートを、母のルドヴィカは「取り柄のない顔」と評価したが、フランツ・ヨーゼフ1世と結婚し、皇后となったエリザベートは「ヨーロッパ王室一の美女」として諸国に名を知られるようになった。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が7歳年下の少女を妻に望んだのは、エリザベートが将来美しくなることを予想していたからなのかもしれない。
結婚と出産を経て、エリザベートは身長173cm、ウエスト50cm前後、バスト80cm〜90cm前後という、非常にスタイルの良い美人に成長する。彼女の有名な肖像画は、1864年、エリザベートが27歳の時に宮廷画家のフランツ・ヴィンターハルターが描いたもので、ウィーン美術史美術館に所蔵されている。
フランツ・ヴィンターハルターは、オーストリア帝国だけではなく、ヨーロッパやメキシコの王族や貴族の肖像画を手掛けた人物である。彼の肖像画は、モデルとなる人物の姿をありのままに描くのではなく、その欠点を隠し、時には流行を取り入れた。現代風に言えば、芸能人やモデルが、雑誌に掲載する写真を専用ソフトやアプリで加工するようなものだろう。
1860年代にヨーロッパの王室で美女と称えられていたのは、オーストリア帝国皇后エリザベートと、フランス皇后ウジェニー(フランス皇帝ナポレオン3世の妻)であった。1867年にザルツブルグで顔を合わせた2人の美女は、その美しさもさることながら、身に着けていたドレスでも人々の注目を集めた。
ウジェニーが当時の流行である、くるぶしの見える短いドレスを身に着けていたのに対して、エリザベートは丈の長いドレスを身に着けることで、高貴さを知らしめることに成功したのである。
肥満を恐れた エリザベート
皇后エリザベートの美しさは世間の評判となり、ウィーンの民衆はもちろん、外国の要人も美貌の皇后を一目見るべく宮廷を訪れた。
1865年にウィーンを訪れたプロイセン王国の軍人ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)を始めとする多くの人々が、エリザベートの美貌や気品を称える文書を残している。
ウィーンの宮廷に馴染めなかったエリザベートは、人前に姿を現すことが少なかったが、その事が却って彼女の美貌を特別な物にした。
エリザベートも自身の美しさを自覚しており、美貌と体型維持のために、極端な食事制限を行った。独身の頃から彼女は少食であったが、結婚後もその習慣は改まることなく、1日の食事が肉汁やブイヨン、果物だけという事も珍しくはなかった。夫のフランツ・ヨーゼフ1世をはじめ、多くの人々がエリザベートを案じ、規則正しい食生活を送るように勧めたが、エリザベートがそれを聞き入れることはなかった。
毎日体重計に乗り、体重の増減に一喜一憂していたエリザベートだが、甘い菓子に目がなかった。彼女はザッハトルテで知られるデメルや、1847年創業のカフェ・ゲルストナーのスイーツを好んでいた上に、ギリシャ滞在中に、ウィーンからチョコレート菓子を取り寄せたこともあった。
また、エリザベートは乳製品も好物で、1895年にはシェーンブルン宮殿の敷地内に農場が作られ、乳牛や鶏が育てられた。
不規則な食生活により、エリザベートは胃痙攣や便秘、体のむくみなどのトラブルを抱えていた。医師に勧められたマッサージを行い、温泉地に湯治へと赴いたエリザベートだが、食事に関するアドバイスには、決して耳を傾けようとはしなかった。
エリザベートは姑のゾフィーと折り合いが悪く、ウィーンの宮廷にも馴染むことができなかった。精神的ストレスと美しさへのこだわりが、いわゆる摂食障害を引き起こしたのかもしれない。
運動に力を入れる
エリザベートは19世紀後半に、ダイエットのための運動を実践した人物である。
彼女はウィーンのホーフブルク宮殿を始めとする居城に設置した最新の運動器具で体を動かした。また、少女時代からの趣味だった乗馬の技術は非常に高く、馬と猟犬が獲物を追いかける狩猟にも参加した。
リウマチにかかって乗馬ができなくなると、エリザベートはウォーキングを始めた。彼女が歩くスピードは速く、侍女が付いていけないほどであった上に、長い時には1日10時間も歩き続けた。明らかに「適度な運動」の域を超えているが、美貌と体型を保つためにエリザベートが努力を惜しまなかったことがうかがえる。
「髪の奴隷」を自称した皇后
長い栗色の髪もまた、エリザベートの美しさを引き立てる要素だった。毎日、長い時間をかけて手入れした髪を、エリザベートは3〜4週間に1度の割合で、卵黄とコニャックを混ぜた物で洗っていた。この特別な手入れの間は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世でさえも、彼女に会うことはできなかったという。
エリザベートは1863年にブルク劇場に勤めていたファニー・アンゲラという理容師を雇い入れる。ファニー・アンゲラは平民の出身ではあったが、破格の待遇を受けた。
当時、ウィーンの宮廷で働く人間が市民と結婚した場合には、宮廷を去らねばならないと規則で定められていたが、エリザベートはファニー・アンゲラを宮廷に留め置くために、彼女の夫で銀行員のフーゴー・ファイファリックを皇后の個人秘書として雇い入れた。フーゴー・ファイファリックは旅行責任者や宮廷参事官、宮廷顧問官を歴任し、騎士の身分を与えられた。
ファニー・アンゲラは宮廷の侍女から嫉妬を受けたものの、皇后の理容師として、30年に渡ってエリザベートに影響を与えた。
皇后も加齢には勝てなかった
美貌と体型の維持に尽力したエリザベートだが、極端な食生活は逆に彼女の美貌を損ねる結果となった。エリザベートは30代のころから肖像画のモデルや写真撮影を拒み、晩年にはほとんど公の場に姿を見せず、人前に出る時には扇や傘で顔を隠していた。
顔を隠すことによって、エリザベートの美貌は神秘的な物として扱われるようになったが、皇帝のプロポーズや不健康な食生活、激しすぎる運動などのエピソードを見ていると、エリザベートは美貌に振り回された生涯を送ったようにも思える。
【参考文献】
「皇妃エリザベート展」展覧会公式図録
https://hamonika-koshoten.com/?pid=100341395
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