知恵伊豆と呼ばれた男 松平信綱
徳川家康より始まった江戸幕府も徳川家光の時代になると幕藩体制が整い始め、戦のない泰平の世へと着実に変貌していった。
そんな江戸幕府でひときわ異才を放つ者がいた。その者の名前は松平信綱(まつだいらのぶつな)である。
かなりの知恵者で、ついたあだ名が自分の官職である伊豆守と掛け合わせて「知恵伊豆」が就くほど才知に溢れていた。
柳生宗矩、春日局の2人と「鼎の脚」(かなえのあし)と称され家光を支えた信綱の人生を本稿では追ってみたいと思う。
家光の小姓になる
信綱は慶長元年(1596)、武蔵国で生まれた。父は大河内久綱であり、久綱は弟に松平正綱がおり、それにより大河内家は徳川家と縁戚の関係であった。
信綱は5歳の慶長6年(1601)に叔父である正綱の養子となり松平姓を与えられる。まだ幼いのに養子になった理由は、大河内の姓では将軍の側で奉公ができないということであった。信綱は幼き頃に自身の進路を決めており、その目的のためにやらなければならないことを理解していたのである。
そして、慶長9年(1604)に家光誕生と同時に家光の小姓となれた。念願の近習になれたのでその厚意を無駄にすることなく家光の側近くにずっとおり、何か御用があれば迅速に対応し、家光の無茶ぶりにも文句言わずに対応しようと努めていたので、秀忠からは将来忠臣となると評価されていた。
老中になる
信綱は元和6年(1620)に500石を与えられ、家紋も三本扇とした。この年に元服後に幼名の三十郎から正永と名乗っていたが、正綱に実子が生まれると「信綱」と改名した。これは実子こそが「正」の字を与えられるべきと信綱が配慮したからであった。
そして元和9年(1623)には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守と叙された。その後は加増され1万石の大名として君臨することになる。
寛永10年(1633)の3月には阿部忠秋(あべただあき)と堀田正盛ら他3人と後に若年寄になる六人衆に任命された。また、同年5月には忠秋と正盛と共に老中に任命された。
信綱はこの時も家光の信頼が厚く、右の手は「酒井忠勝」、左の手は「松平信綱」と評価され、家光の左腕として幕府政治に貢献していたことがわかる。
同じ老中の忠秋は忠勝から信綱について、「人とは思えないくらい頭の回転が早いので知恵比べをしてはいけない」と言われている。また忠秋自身も信綱の才知を認めており、信綱が幕府の成長に欠かせない人物であったことがわかる。
島原の乱を鎮圧する
戦のない日々が続いていた最中、寛永14年(1637)に天草四郎を中心にキリスト教徒の一揆が起こった(島原の乱)。
幕府は板倉重昌(いたくらまさしげ)を総大将にして乱の鎮圧を計ったが、戦国時代に改易となり領地を失った武士たちも一揆に加担しており、攻勢空しく重昌は戦死してしまう。
事態を重く見た幕府は信綱を新たな総大将にした。信綱は立花宗茂や黒田一成などの戦国時代を生きた武将たちの力を借り、兵糧攻めを敢行しついに天草四郎を討ち取ることができた。
島原の乱以降、信綱はキリスト教の取り締まりを強化し、オランダ人のみと出島で交易する鎖国制を完成させた。
翌年の寛永15年(1638)には老中首座となり、信綱は幕府政治の中核となっていた。
家光の死後
家光が慶安4年(1651)に亡くなると江戸幕府4代将軍の家綱の補佐に当たり、同年に起きた由井正雪の乱(慶安の変)や翌年に起きた戸次庄左衛門の乱(承応の変)の鎮圧に尽力した。
また、信綱は家光の死後に殉死しなかったことを市民から非難されていた。
殉死しなかったのは家光から家綱の補佐を頼まれていたことと、江戸幕府を支える役職の人が全員殉死したら誰が幕府を支えるのかと反論したためである。
家綱の時代では明暦3年(1657)に起きた江戸三大大火の1つである明暦の大火の対処を行った。その時、老中首座の権力を使い17人の大名の参勤交代を免除したが、それを非難した紀州徳川家の徳川頼宜(とくがわよりのぶ)に対してこの件の責任は自身1人で負うこと、大火で米や家屋が失われたのに参勤交代で大名が江戸に来たら民をさらに飢えさせることを述べた。
これには頼宜も感嘆したという。他にも米の高騰を防ぐため地方から米を江戸へ送ってもらうよう手配するなど、信綱がいなかったら明暦の大火からの復興は遅かったであろう。
その信綱も病には勝てず、寛文2年(1662)1月には出仕できない状態にまでなっていた。そして3月に危篤状態になり老中在職のまま67歳の人生の幕を閉じた。
最後に
幼少期から幕府のために自分ができることを考え、それを行動に移してきた信綱。それ故に茶の湯や将棋などの武士のたしなみをないがしろにしてきてしまった。
趣味に時間を割くことなく常にオンの状態であるから堅物と評価されてしまっていることも事実である。
信綱のように自分の仕事に誇りを持ち、常に最善を尽くすことを怠らないことは学ぶところであるが、時には心身ともに休ませるオフの時間が必要であることも同時に学べる。どちらかに偏ることなくバランスよくオンオフを使いこなせることが大切なのかもしれない。
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