中国史

洪武帝について調べてみた【中国最大の下克上と功臣の大粛清】

中国の歴史の中で様々な王朝が出来ては滅んでいったが、その王朝の創始者の中で農民から身を起こした人物は、漢の劉邦と今回紹介する洪武帝(朱元璋)のみである。

底辺からのスタート 洪武帝の少年時代

洪武帝について調べてみた【中国最大の下克上と功臣の大粛清】

※洪武帝の肖像画

朱元璋(しゅげんしょう)は1328年に貧農の8男として生まれた。

この頃の中国は元朝の末期の頃であり、政治的混乱が起きて今日食べるものも困る有様だったという。さらに、父が黄河の氾濫で亡くなると朱元璋は出家。托鉢僧として乞食同様の最底辺の生活を余儀なくされたのである。

同じ農民から身を起こした劉邦ですら生まれの家は一応自作農だったため、朱元璋のような生活は後の皇帝の少年時代としたらまさしく異常なものであったのである。

紅巾の乱

※当時の中国の各反乱勢力の版図 wikiより

1351年、元朝の政治に不満を持った白蓮教徒が大反乱を起こし、いわゆる紅巾の乱が始まった。この大反乱が朱元璋の人生を大きく変えてしまうのだ。

朱元璋は占いで反乱に参加するといいことが起きると知ると寺を抜け出し、郭子興率いる反乱軍に参加する。突拍子もない参加で最初はスパイに間違われたらしいが郭子興は彼の才能を面構えで感じ取り家臣とした。

この予想は大当たり、朱元璋は家臣として大車輪の働きを見せてのちの家臣となる人材を取り込んでいく。

明の建国

朱元璋は1355年に主君の郭子興が亡くなると、1356年には彼の息子の軍を吸収。さらに自身が農民ということもあり支持を取り付け、最終的には紅巾の乱の反乱軍の中で最も強大な勢力となった。

彼はその勢いそのままに南京を占領。ここを足掛かりとして紅巾の乱のそのほかの軍を制圧し始める。鄱陽湖の戦い陳友諒を討伐すると白蓮教と決別。

紅巾の乱の反乱軍を逆に討伐し江南を完全に支配すると朱元璋は1368年に明国の建国を宣言。南京を応天府と名を改め、自身の名も洪武帝とした。

こうして中国には南宋以来の漢民族による国家を打ち立てたのである。

北伐による中華統一

明の建国後、元朝における内紛を好機としてみて洪武帝は20万の軍を家臣の徐達に与え北伐を命令する。

北伐は元朝が混乱していた事もあり順調に侵攻。北伐の軍が元朝の首都である大都(北京)に迫ると元朝の皇帝の順帝はカラコルムに撤退。中国の領土を放棄した。そしてついに北伐の軍は大都に入城し北伐を完成させたのである。また、紅巾の乱の残党であった大夏国も討伐。雲南や四川の地も平定して中華統一を成し遂げた。

こうして、洪武帝は貧農でありながら40歳にして中国一帯を支配する大皇帝となり、久しぶりに漢民族による中華統一を成し遂げたのであった。

洪武帝の重農主義

洪武帝について調べてみた【中国最大の下克上と功臣の大粛清】

※魚鱗図冊 出典

洪武帝は自身が元々貧農だった事もあり、農業に関する重農主義的な政策をどんどん打ち立てていく。

まず、これまで流通や経済を牛耳っていった大商人たちを弾圧。

財産を没収して彼らを不毛の土地へと飛ばした。

その分、その没収した財産を元手に治水事業や魚鱗図冊という地図を作成し、各地の土地を調査して里甲制の整備をしたり、また大商人たちに苦しめられていた小さな商人を保護した。

彼の農民に対する政策は、まさに貧困に苦しめられた自身の青年時代のようなことを引き起こしたくないという思いからだったと思う。

文字の獄

洪武帝について調べてみた【中国最大の下克上と功臣の大粛清】

※洪武帝のもう一つの肖像画 上の肖像画とどちらが正しいのかはもうわからない

こうして中華統一を成し遂げ、さらに重農主義をとった洪武帝だったのだが、1381年から彼の考えがどんどんおかしくなっていく。まず、彼は官吏に対する大粛清を急激に推し進めていった。

いきなりだが、中国語というのは表意文字という事もあって例えば「雨」と「飴」や「鎌」と「釜」のようにどうしても同じ発音になってしまう言葉がいくつもある。これに目をつけた歴代の皇帝たちは、馬鹿にする言葉に発音が似ている言葉を使用したという理由だけで功臣や文人たちを粛清してしまう事があった。

これを文字の獄というのだが、洪武帝の場合は元々貧農だった事もあり、その部分の範囲が非常に多すぎた。

例えば「僧」や「禿」という言葉を使ったのみで、彼が元々托鉢僧ということを馬鹿にしているとして功臣らを粛清。さらに「僧」に近い発音をする「生」などの言葉を使っただけでも殺された。

さらに洪武帝は官吏たちがあらかじめ役所の印を押す空印をしていたことに激怒。空印事件という官吏の大粛清を敢行して、これによって2万人以上の人が殺されたのである。

続く大粛清と彼の死

洪武帝は官吏に対する粛清を止めることはなく、自分が高齢化して死ぬと後継者争いになると疑心暗鬼するようになり、胡藍の獄(こらんのごく)という功臣たちの大粛清をし始める。

1375年家臣の胡惟庸劉基を毒殺しようとしたという疑いをかけられて処刑される。これをきっかけに胡惟庸の獄という2万人の大粛清に繋がっていった。

さらに1382年に彼の妻でありこの粛清を止められる唯一の人であった考慈高皇后が亡くなるとこの粛清はどんどんエスカレート。この頃になると過去のことを蒸し返し、謀反しようとしたとして藍玉含む家臣が一族皆殺しにされてさらに彼の家臣も連座されられた。これを藍玉の獄といい、この一連の獄をまとめて胡藍の獄という。

洪武帝の擁護をすると中国王朝というのは最初の頃に粛清をすると国がある程度安定する傾向がある。漢の劉邦も功臣への粛清を行った。

しかし、洪武帝がやった大粛清はその度が過ぎていた。

しかし彼は最後の最後まで功臣の粛清をやめようとはせず、1398年に信用できる人物を全員殺し、誰も信じることができない孤独の中崩御した。享年71

その後明は彼の孫である建文帝が引き継ぎ、そしてその子である永楽帝の時に全盛期を築き上げることになった。

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