平安時代

藤原秀郷・大ムカデ退治の伝説【多くの戦国大名の祖】

武の藤原氏

藤原氏といえば、一番に思い浮かべるのは貴族か文官のイメージだと思う。

藤原氏は藤原不比等(ふじわらのふひと)や、藤原道長などが有名だが、確かに文官が多いのは事実である。

しかし、藤原氏の中にも優秀な武官はいる。

今回は藤原氏を武でけん引してきた武官・藤原秀郷 (ふじわらの ひでさと)について追っていきたいと思う。

素行が悪かった

藤原秀郷

藤原 秀郷 (ふじわらの ひでさと)wikiより

藤原秀郷は生誕が不明である。

しかし、秀郷は藤原北家の藤原房前の五男である藤原魚名(ふじわらのうおな)を始祖に持つ、魚名流の出身ということはわかっている。

藤原氏の出身なので京都近辺の田原の郷に住んでいたが、魚名流は本家筋ではない分派であり、父である藤原村雄が下野守なので、その縁があってか在庁官人として、下野国で勢力を保持していた。

秀郷は、5人がかりでも引けない弓を扱えたと言われるほどの剛力で武功を成し、近隣諸国にその名を知らしめた。

その後、下野国で一大勢力を築いたが、延喜16年(916)、秀郷は隣国の上野国で起きた闘争に加担し流罪となる。

しかし、藤原氏の子孫であることと数々の武功が幸いし流罪が免除される。また、その武名により延長5年(927)には現代の警察に近い押領使(おうりょうし)に命じられ、治安維持にあたった。

その時の秀郷の官位は従五位下であり藤原氏の中では下に感じるが、高い身分にいたことがわかる。同年には唐沢山(現在の栃木県佐野市)に城を築いた。(唐沢山城)。

秀郷は、押領使になったことで権力を振りかざした乱暴な行動が目立ち始め、延長7年(929年)、下野国より追討命令が発せられている。

実際に捕まった記録はないが、出されたのは事実である。

平将門討伐に参加

藤原秀郷

平将門 wikiより

承平5年(935)、平将門が、同族との私闘で常陸国の国府を占領してしまう。

それに乗じて興世王が、将門に関東八州(下野、上野、下総、上総、常陸、安房、相模、伊豆)の占領も提案し、将門もそれに従った。

関東八州を占領した将門は自らを新皇と称し、関東で独立勢力を築き始めた。

そんな状況を朝廷が許すはずもなく、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、将門討伐の追討軍が京を出立した。

秀郷は平貞盛と共闘し、4000人の連合軍で将門と対峙した。将門は秀郷・貞盛連合軍に敗走を重ねていき、将門の軍はわずか400人ほどとなった。

それでも将門は10倍ほどの戦力差のある連合軍と戦い、風を上手く利用して弓矢で連合軍を圧倒した。しかし運悪く風向きが変わり形勢不利となり、将門は流れ矢に当たって戦死した。

この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)の霊剣を使って将門を討伐したと言われている。

将門討伐の功績により秀郷は従四位下、下野守に任ぜられた。同時に武蔵守、鎮守府将軍にも任ぜられ将門討伐によって一躍時の人となった。

しかし、その後の秀郷に関する記録は一切なく、没年や晩年のことなどは不明である。

意外と多い 藤原秀郷の子孫たち

藤原秀郷

藤原清衡 wikiより

秀郷が興した秀郷流藤原氏は、武家の棟梁として多くの武士を生み出した。

その中で有名なのは、佐藤義清(さとうのりきよ)こと西行であろう。西行は秀郷より数えて9世代目であり北面の武士として活躍していた。

また、藤原清衡(ふじわらの きよひら)を祖とする奥州藤原氏も秀郷の子孫である。

他にも結城秀康を養子にした結城家や、蒲生氏郷を輩出した蒲生家などがある。また九州にも子孫がおり、大友家立花家など戦国時代に功を競った武家も秀郷の子孫である。

さらには忠臣蔵で有名な大石内蔵助も子孫であり、秀郷の血と武勇は、時代や世代、名前を変えて受け継がれていった。

大百足退治の伝説

瀬田の唐橋にある百足退治伝説の記念碑

秀郷に関する伝説として有名なのが、御伽草子『俵藤太物語』に記された大百足(おおむかで)退治である。

ある時、近江国にある瀬田の唐橋に大蛇が現れ、人々は恐れて橋を渡らなくなった。そこを通りかかった秀郷は何事もなかったかのように大蛇を踏みつけて渡っていった。その夜、秀郷の元に美しい娘に姿を変えた先ほどの大蛇が現れ、「豪胆なあなたを見込んでのお願いです。実は私の一族が三上山の大百足に苦しめられています。是非助けて下さいませ」と秀郷に懇願する。この願いを秀郷は聞き入れ三上山へ大百足討伐に向かう。

秀郷は大百足に向かって矢を射るが通じなかった。そこで秀郷は最後の一本に唾をつけ、八幡神に向かって祈りを込めた矢を射ると、大百足を討伐することができた。
娘(大蛇)は秀郷に米の尽きることのない俵を与えた。また、大蛇は竜宮に住む者であり、後にこの龍神一族の助けにより将門の弱点がわかり、将門を討ち取ることができた。

という伝説がある。

最後に

藤原秀郷は、若い頃は手の付けられない暴れ者だったが最後は将門を討伐し名を馳せ、武家として藤原氏を発展させて多くの戦国大名の祖となった。

伝説となった秀郷の子孫たちは、きっと秀郷の子孫であることを自慢していただろう。

 

檜

投稿者の記事一覧

小学校の頃から歴史が好きで気がつけば大学で日本史を専攻にするくらい好きになってました。戦国時代~江戸時代が一番好きでその時代中心となりますが、他の時代も書きたいと思っています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 後白河法皇は本当に「日本一の大天狗」だったのか? 「平安末期・権…
  2. 悪党は五度死ぬ?平安時代、天下を騒がせた「悪対馬」源義親とその名…
  3. 菅原道真を太宰府に左遷し、死に追いやった真犯人とは? 「政治的状…
  4. 最愛の女性を自分の手で…煩悩に迷える若き武士・遠藤盛遠が犯した過…
  5. 源頼朝は伊豆の流人からどうやって将軍になれたのか?
  6. 【井戸から地獄に通っていた?】 野狂と呼ばれた小野篁 ~昼は役人…
  7. 【鎌倉殿の13人】山口馬木也が熱演!山内首藤経俊の強烈なキャラと…
  8. 源義経が逆落としをしたのは本当なのか

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

「6月16日 和菓子の日」のルーツになった江戸幕府の儀式 「嘉祥」とは?

6月16日は、和菓子の日です。1979年、全国和菓子協会が、明治以降衰退した「嘉祥」…

「いい国作ろう鎌倉幕府」はもう古い!歴史教科書の今と昔

最近の語呂合わせは「いい箱作ろう鎌倉幕府」と暗記する日本史の出来事を語呂合わせで暗記する人は多い…

「徳川家に不幸をもたらした」 妖刀・村正

前編に引き続き後編である。100年にも及ぶ戦国時代の最終的覇者となった徳川家康と徳川家には、…

【娘と馬が夫婦になって父が激怒】 東北地方に根ざした「オシラサマ信仰」とは

オシラサマとはオシラサマは、日本の東北地方、特に青森県や岩手県に深く根付いていた民間信仰の一種で…

千鶴丸は生きていた?頼朝の子・源忠頼と和賀一族の系図をたどる【鎌倉殿を13人 外伝】

源頼朝(みなもとの よりとも)の男児と言うと、北条政子(ほうじょう まさこ)との間にもうけた嫡男の源…

アーカイブ

PAGE TOP