歴史をのぞくと、その時代の背景にはどのような出来事があったのか、気になることが次々と出てきます。
今回は長屋王を調べてみました。
長屋王はどんな人物?
長屋王(ながやおう)は、父・高市皇子(たけちおうじ)と母・御名部皇女(みなべのこうじょ)の間に生まれました。(母は天智天皇の娘にあたります)
妃にはいとこにあたる草壁皇子(くさかべのおうじ)の娘・吉備内親王(きびないしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘など数人があげられます。
※難しい名前ばかりなので、簡単に説明すると…
長屋王は天武天皇の孫です。そして、藤原不比等は藤原鎌足(中臣の鎌足)の息子です。
大化の改新後、中大兄皇子は天智天皇となり、中臣鎌足は天皇から藤原の性を賜りました。
長屋王は父方の祖母が位が低かった為に、父の時代から後継者争いとは無縁でした。
しかし父母共に皇族の血筋をひき、長屋王がいつ皇位についてもおかしくはありません。さらには、とても優秀な人物でもあったため次々と出世し、高い地位についていくのです。
それをよく思っていなかったのが、藤原不比等の息子達でした。
藤原不比等の息子達(藤原四子)
藤原不比等の4人の息子は、藤原四兄弟(よんきょうだい、しきょうだい)と表現されています。
武智麻呂(むちまろ)は藤原南家(なんけ)の祖、房前(ふささき)は藤原北家の祖、宇合(うまあい)は藤原式家の祖、麻呂(まろ)は藤原京家の祖となります。
長屋王と不比等の仲は悪いものではなくお互いに上手く立ち回っていました。
藤原氏は不比等亡き後に、左大臣となって力を持ち始めた長屋王を倒す為、チャンスを伺い続けるのです。
辛巳事件(しんしじけん)
誰の時代?
「文武天皇」亡き後は「元明天皇(女帝・文武天皇の母)」、「元正天皇(女帝・文武の姉)」が即位されました。
文武天皇の息子「首皇子(おびとのみこ)=聖武天皇」がまだ幼過ぎたので、中継ぎの天皇ととなられたのです。
23歳になった首皇子は聖武天皇として即位します。
この時にはすでに藤原不比等は亡くなっており、長屋王は左大臣の位にまでのぼりつめ政治の実権を握っていました。
「三世一身の法」を施行したり、律令制の維持に力を入れ、聖武天皇のもとで藤原氏を抑えての皇親政治を目指していました。
藤原氏との対立
聖武天皇が即位されると、朝廷は2つの勢力に分かれます。
それまで天皇として継承できるのは、父母共に皇族の血をひくものが通例だったのですが、聖武天皇の母は藤原不比等の娘・藤原宮子です。
これを快く思わない者達と、これをきっかけにさらに勢力拡大をはかろうとする藤原氏の闘いが始まってしまうのです。
藤原氏の罠
目に見えて起こったのが「辛巳事件」です。
聖武天皇の即位後に、「生母・藤原宮子(藤原不比等の娘・文武天皇の妃)」の尊称で揉めた事件を言います。
天皇は「大夫人(だいぶにん)」と呼ぶよう勅令をだしました。
もちろん母の権威をあげる目的です。しかし裏では藤原氏も関わっていました。
これを見透したかのように長屋王が反対の声をあげたのです。
「天皇の生母は公式令(くしきれい)にのっとり「皇太夫人(こうたいふじん)」でなければいけない。」
その言葉で聖武天皇は勅令を撤回し、同時に藤原氏も出鼻をくじかれたのです。
長屋王の変
基王(もといおう)
727年、聖武天皇と藤原光明子に待望の男子「基王(もといおう)」が生まれました。
わずか1ヶ月後には皇太子とされましたが、これも天皇家とのつながりを固くしたい藤原氏の陰謀です。
しかし、1年後の728年に「基王」は突然亡くなってしまい、この事が後に起こる「長屋王の変」の元凶となるのでした。
密告
729年、聖武天皇のもとに届いた密告は、
「秘かに左道を学び 国家を傾けんと欲す」長屋王が、謀反を考えているという内容でした。
もちろん藤原氏によるデマ、長屋王を亡き者にするためのものです。
さらには「基王」が亡くなったのは、長屋王による呪詛(じゅそ)のためだとも付け加えられ、とうとう聖武天皇の心を動かしたのです。
自害
密告をしたのは「漆部君定(ぬりべのきみたり)」、「中臣宮処連東人(なかとみのみやところのあずまびと)」、兵を動かしたのは「藤原宇合」でした。
屋敷内にいた長屋王のもとには、舎人親王・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が向かい謀反の罪を認め自害するよう促しました。
長屋王も全ては藤原氏の陰謀とわかりながら、人の手により殺されるならと夫人や子供達にも自ら毒を飲ませ、自害したのです。729年2月、46歳でした。
これが「長屋王の変」です。
長屋王を亡き者とした藤原四兄弟でしたが、737年には4人が天然痘で相次いで亡くなっています。
これは長屋王の祟りと噂されるのも、仕方のない話なのかもしれません。
番外編
鑑真和上(がんじんわじょう)をスカウト
奈良時代、国からの許しを受けずに僧になるものが急増しました。
理由は税金を支払わなくても良いという決まりがあったからです。
そのため仏教にも通じていた長屋王は、日本にも受戒(じゅかい)制度を確立しようと戒律(かいりつ)を与える高僧を唐から招くことにしました。
733年には選ばれた僧2人(普照ふしょう・栄叡ようえい)が唐へ渡りましたが、9年の長い間見つけ出すことが出来ませんでした。
当時は唐から出国すれば死罪と決まっており、万が一出国出来ても半分は船が海に沈み成功する事は少なかったからです。
742年、やっとの思いで2人が見つけ出したのが鑑真和上(がんじんわじょう)。
他の修行僧らが断り続ける中、鑑真和上自ら日本へ行くと名乗り出たのでした。
長屋王が唐の高僧に寄進するために持たせた「千枚の袈裟(けさ)」、そこに刺繍された漢詩に鑑真は心を動かされたのです。
それから日本への渡航を試みますが、5度の失敗にあい、旅の疲れで盲目になりながら6度目にしてやっと日本にたどり着いたのです。
759年に現存の西ノ京に鑑真和上ゆかりの唐招提寺を建立しています。
長屋王邸宅跡の祟り?
1988年に奈良そごう建設予定地から、4万本の木簡が出土しました。
木簡に残る文字から、この地が長屋王の邸宅跡であることがわかったのです。
遺跡に商業施設を建てることに反対の声もありましたが、1年後には奈良そごうがオープンしました。
しかし、わずか11年後には倒産してしまうのです。
3年後の2003年にはイトーヨーカ堂がオープンするも2017年には閉店。
2018年4月より新しく「ミ・ナーラ」としてオープンしています。
続かないのは長屋王の祟り?!だとか色々な噂も飛びかいますが、本当は駅から少し離れているのが一番の理由のようです。
近くには「朱雀門」をはじめ、「平常京跡歴史公園」も完成していますので、これからは地元の方だけでなく、大勢の歴史ファンで賑わいを見せてくれることでしょう。
関連記事:
大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】
本当に「平家物語」は平家の怨霊を慰めるためにつくられたのか?
記事の中に元正天皇は「文武天皇の叔母」とありますが、正しくは文武天皇の「姉」です。
文献によると元正天皇(氷高皇女)は天武9年、文武天皇(珂瑠皇子)は天武12年の生まれとなっています。
生母はともに元明天皇(阿閇皇女)で、長屋王の妃となった吉備内親王は文武天皇の妹にあたり、文武天皇の子
である聖武天皇の叔母になります。
また、長屋王の異母弟の草壁皇子というのも間違っています。長屋王と草壁皇子は母同士が姉妹であるため、
いとこ同士になります。長屋王の母は御名部皇女、草壁皇子は阿閇皇女(後の元明天皇)で、2人は天智天皇を父と
する同母姉妹であり、御名部皇女は高市皇子に嫁ぎ、阿閇皇女は天武天皇と持統天皇(鸕野讚良皇女)の息子である
草壁皇子を夫としました。持統天皇を姑にもち、藤原氏が後ろ盾についたことで姉妹の明暗が分かれたともいえる
のではないでしょうか。
いつの時代も身内の争いというものは、結果として悲劇しか生まないように思います。
ご丁寧なご指摘まことにありがとうございます。修正させていただきました。
身内の争いは時代や国を超えてどこでもありますね。