はじめに
戦国時代の剣豪は、数々いますがトップ3を挙げよというと必ずランキングされるのが「塚原卜伝」です。
「戦わずして勝つ」という言葉を耳にしたことがある方も多いはず、この言葉の生みの親が塚原卜伝なのです。
生涯一度も負けたことがないという剣豪・塚原卜伝について調べてみました。
塚原卜伝とは
塚原卜伝(つかはらぼくでん)は、延徳元年(1489年)2月に常陸国鹿島(現在の茨城県鹿島市)に鹿島氏の四家老の一人、卜部覚賢(吉川覚賢)の次男として生まれ、5~6歳の時に卜部覚賢の剣友である塚原安幹の養子になり、後に名前を新右衛門高幹(しんうえもんたかもと)と改めて、その後に卜伝(号)としたのです。
実父である卜部覚賢からは鹿島古流(鹿島の太刀という古くからの剣法)を習い、養父の塚原安幹からは天真正伝香取新道流を習い、武者修行に出て剣の腕に磨きをかけ、後に現在も続く新当流を開いた人物です。
生涯の戦績
生涯一度も負けなしという塚原卜伝は、永正2年(1505年)16歳の時に元服して名前を塚原新右衛門高幹として京都を中心に廻国修業(武者修行)に出て、17歳の時に京都の清水寺付近で人生初の真剣試合をして、それから約13年間に渡り多くの戦いに加わります。
戦績は、真剣試合は19度、戦場での戦いは37度、この2つについては一度の不覚も取られずに体についたのは矢の傷が6ヶ所だけ、木刀での打ち合いは数百度で1度の負けも傷もなし、立ち会って敵を討ち取ること212人。ほとんどを16歳からの最初の廻国修行で経験したのです。
驚きの戦績、生涯無敗なのです。
この戦績は、塚原卜伝の弟子である加藤信俊の孫が書いた「卜伝遺訓抄」に記述されています。
1回目の廻国修業
1回目となる16歳からの廻国修業は、京都を中心に戦乱の中での修業であり、戦いに明け暮れ、人の死を目の当たりにし、世の中の虚しさと儚さで心を痛めて永正15年(1518年)に故郷の鹿島に戻るのです。
彼の余りにも変わり果てた姿を見た実父と養父は、鹿島を代表する剣士の松本備前守政信に預け、松本備前守は彼に千日間の鹿島神宮への参籠を奨めて、その最中に鹿島の大神から「心を新しくして事に当たれ」との神示を頂いて、悟りを開いた彼は、卜部の伝統の剣を伝えるという意味で「卜伝」(ぼくでん)を号としたのです。
2回目の廻国修業
松本備前守政信から2回目の廻国修業を奨められて、大永3年(1523年)に出発して今度は西日本から九州の太宰府まで足を延ばします。
卜伝は、2本の木剣を紐に通して背中に背負い、訪れた先々で人々に剣を指導したのですが、この当時の詳しい行動については定かではなく記述も残っていなのです。
塚原卜伝の結婚
2回目の廻国修業中に実父の死を知った卜伝は、天文元年(1532年)に鹿島に戻り塚原城に入って城主となり、その後、妙(たえ)という女性と結婚。城主と弟子の育成に励み、10年後に妻が病気で亡くなると、養子の彦四郎幹重に城主を譲り、3回目の廻国修業を決意します。
3回目の廻国修業
68歳になった卜伝は、弘治3年(1557年)に3回目の廻国修業に出発。自分が完成した「一の太刀」という「国に平和をもたらす剣」を伝えるべく時の将軍である足利義輝や足利義昭、細川藤孝、北畠具教、今川氏真、武田信玄の軍師である山本勘助ら、将軍や戦国大名たちを指導したのです。
この時の廻国修業には、80人を超える門人を引き連れて、大きな鷹を3羽を据えて、乗り換え馬は3頭と、とても豪壮な行列であったと伝えられています。
将軍の足利義輝は、剣豪の域に達し、北畠具教には約2年間も指導して「一の太刀」を授け、足利義輝と北畠具教に授けた「一の太刀」は現在の鹿島新当流には伝わっておらず、剣の究極とされる「人の和」を表現する思想的な剣技だと思われています。
北畠具教は、塚原卜伝を敬愛して伊勢には卜伝の屋敷跡、塚原という名前の土地、塚原公園、塚原観音、塚原橋などが残っているのです。
伊勢を離れた卜伝は、甲斐を訪れ武田信玄に剣技を披露し、山本勘助、原美濃守、海野能登守などが弟子になって、大名並みの待遇を受けたとされています。
次に下野の唐沢城主、佐野修理太夫昌綱の居館に滞在して5人の男子のうち3人に剣を教えて、次男の天徳寺了泊と三男の祐願寺は武芸者として世に名を知らしめます。
永禄9年(1566年)、約10年近くの3回目の廻国修業を終えて鹿島に戻ります。
そして5年ほど過ぎた元亀2年(1571年)2月11日に卜伝は83歳で生涯を閉じます。
数々の伝説や高い剣の理想から、いつしか人々は卜伝のことを「剣聖」と呼ぶようになったのです。
門下生や弟子
門下生や弟子には、剣豪と呼ばれる人や将軍や大名までがいます。
唯一相伝が確認されたのは、雲林院松軒、剣豪として一派を構えたのは、諸岡一羽、真壁氏幹、斎藤伝鬼房、松岡兵庫之介、林崎勘助、上泉信綱ら、「一の太刀」を伝授したのは足利義輝と北畠具教、門下生は数が分からない位いたようです。
剣聖と呼ばれた卜伝の奥義は、弟子たちから孫弟子と繋がっていきます。
一羽流の開祖となる諸岡一羽、その弟子がまた新たな流派を作るなどで、私の師匠の師匠が卜伝だという話もたくさんあり、新選組の局長である近藤勇の天然理心流も実は卜伝の流れを組む流派なのです。
塚原卜伝の伝説
塚原卜伝には、数々の伝説や逸話があるので幾つか紹介します。
琵琶湖を渡る船の上で会った若い剣士が船で卜伝に決闘を申し込み、小島で決闘を受けるとした卜伝は船を降りずに帰ってしまい、罵倒する剣士に向かって「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と高笑いしながら去ってしまった話は有名です。
宮本武蔵が、若い時に食事中の卜伝に勝負を挑み斬りつけたが、卜伝が囲炉裏の鍋の蓋で武蔵の刀を受け止めたという話。
この話は実は作り話で、武蔵が生まれる前に卜伝は死んでいます。
卜伝と言えば「一の太刀」ですが、実は松本備前守政信から伝授されたという話がありますが、新当流を羅列した「天真正伝新当流兵法伝脈」にも詳しい記述は一切なく、一の太刀以外にも魔の太刀と呼ばれる剣技もあるとされています。
無手勝流(むてかつりゅう)とは
無手勝流とは卜伝流の違う呼び方でもあり、戦わずして勝つという力のみでなく策で勝つといった意味合いを持った言葉でもあります。前述した船の決闘の話が象徴的なエピソードです。
卜伝には、3人の養子がいたのですが、家督を譲る際にも「無手勝流」が基準となったようで、ふすまを開けると木枕が落ちる仕掛けで3人を試し、次男と三男は剣を構えて木枕を斬ったが、長男は仕掛けを見抜いて先に木枕を取り除いたので、長男に家督を譲ったのです。
おわりに
生涯無敗の剣聖として名を馳せた塚原卜伝は、若い時の経験や体験からなのか「戦わずして勝つ」という教えを説いています。
卜伝の弟子には、将軍や大名という人たちと、後に剣豪と呼ばれ一派を構えた世に名前の知れた剣士たちがたくさんいたのです。
時代が違うのに宮本武蔵と塚原卜伝が戦ったら、きっとこんな感じになるのではと逸話が創作されるほど戦国時代一の剣豪とされる卜伝。人を殺すのではなく、平和を願うために剣を教えた卜伝。
きっとその教えは彼を題材にした多くの作品と共に語り継がれていくことになるはずです。
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氏家卜全と混同しちゃうときがあるw