はじめに
濃姫と聞いてすぐ思い浮かぶのは「織田信長の妻」、マムシの道三と呼ばれた斎藤道三の娘で気の強い女性というイメージがあります。
しかし、濃姫の晩年や最後に関する記述がなく、とても謎に包まれている人物なのです。
謎多き濃姫の「生いたち」「信長との結婚」など様々な説について調べてみました。
濃姫の生い立ち
濃姫(のうひめ)は、天文4年(1535年)、美濃国(現在の岐阜県)の大名・斎藤道三と正室・小見の方の間に生まれました。
道三にはたくさんの子供が居ましたが、正室が生んだ娘は濃姫唯一人であったとされています。
実は濃姫は本名ではありません。
書物によって異なるのですが、「美濃国諸旧記」では帰蝶・歸蝶(きちょう)、「武功夜話」では胡蝶(こちょう)、織田信長に嫁いだ時には鷺山殿(さぎやまどの)、信長の妻になってからは於濃の方(おのうのかた)、一般的に言われている濃姫は「絵本太閤記」と「武将感状記」で登場して有名になりましたが、この濃姫は美濃国の高貴な女性という意味の通称で、名前ではないのです。
しかし、ここでは「濃姫」とあえて呼ばせてもらいます。
濃姫の母親の小見の方は、当時、東美濃随一の名家とされた明智家の出身で、明智光秀の叔母に当たり、濃姫と光秀は従兄妹の関係になります。しかし、光秀の出生は不明な点が多く諸説もあるので正確な続柄は確定していませんが、親戚には違いないのです。
信長との結婚生活
濃姫は、織田信長に嫁ぐ前の12歳(数え)で、美濃国の守護である土岐頼純の正室として嫁ぎますが、夫がすぐに戦死して実家に戻ったのです。
この当時、斎藤道三は隣国の信長の父である織田信秀との間で戦が絶えず、実は土岐家との縁組の他に織田家(信長)との縁組も約束していたのです。
まさしく戦国時代、こんな幼少の頃から濃姫は戦の道具(人質)となっていたのですね。
道三と信秀の争いは絶えず、和睦を望んだ信秀が信長と濃姫の縁組の約束を催促したとされ、天文18年(1549年)2月24日、濃姫15歳(数え)で二人は結婚します。
しかし、当時の織田と斎藤は戦を再三行う間柄であり、信長は「尾張のうつけ」と評判の男、この時の濃姫の心中は穏やかでなかったと想像できます。
この時に有名な話があって、濃姫が織田家に嫁ぐ前に父の道三が短刀を渡して「織田信長という男が本当にただのうつけならばこの短刀で刺して殺してしまえ」と言ったとされます。それに対して濃姫は「この短刀で刺すのは父上かもしれませんよ」と言い返しました。これはつまり「自分は敵国に嫁ぐ身で、嫁ぐということは織田家の者になることの覚悟が出来ている、更には信長がうつけではなく頭の切れる人物なら逆に父の首を狙うものになるかもしれませんよ」という意味が込められています。
この話からも、濃姫はとても気が強く、賢い人物であったことが推測されます。
この短刀を持って濃姫は信長の元に嫁ぎますが、二人の仲はかなり良かったという話が伝わっています。信長には側室が何人か居たそうですが、正室である濃姫を常に一番に立てていました。能力主義の信長が濃姫を立てたということは、濃姫は能力的にも有能な人物であったと推測できます。
ドラマなどで良く目にする斎藤道三と織田信長の面会のシーンは、結婚後の天文22年(1553年)4月、正徳寺で対面する場面です。「信長を気に入った道三が結婚を許す」というシーンですが、これは作り話だとされています。
濃姫と信長の間には残念ながら子供はできなかったとされています。後に側室が生んだ信忠を濃姫の養子にして嫡男としたとも言われています。
しかしながら嫡男や男子は生まれませんでしたが信長には娘が多かったので、一説には濃姫が生んだ娘も居たのではないか?という説もあります。
その後、道三が息子に殺されてしまい、濃姫は斎藤家の菩提寺に道三の肖像を贈ったとされますが、その記述を最後に歴史から濃姫の名前は消えてしまいます。
濃姫の史料は極めて少ないのです。
明智光秀と濃姫の関係
濃姫と光秀を扱った作品の中には、濃姫と明智光秀は幼馴染の恋仲で二人で信長暗殺を計画して本能寺の変の手引きを行い、二人の恋は成就するなんていうドラマティックな物もあります。
しかし事実は異なり、二人が従兄妹または親戚であったことは間違いないですが、濃姫が最初の結婚をした12歳の時には、光秀はすでに結婚をしていました。
数々の書物から光秀は愛妻家であったことがわかり、有名なこんな話が残っています。
「光秀に嫁ぐはずだった妻木家の娘が結婚直前に疱瘡という病で顔に痕が残り、顔がそっくりだった妹を身代わりに差し出したが、光秀は妹を失礼のないように送り返して妻を娶った」
しかも、光秀は生涯側室を持たずに妻を大事にしました。
顔見知りだったかもしれませんが、恋仲という話は後世の作り話のようです。
謎多き濃姫
濃姫に関する資料は乏しいですが、濃姫に関する様々な説があるので幾つか紹介します。
『離縁説』
濃姫の最後に関する記述がないことから、道三の死後、信長は生駒という側室を寵愛したために生駒が懐妊した時期に織田家から濃姫を追放、濃姫は父を殺した兄の元には帰らずに母方の明智光安(濃姫の叔父)に身を寄せた、だから資料などに濃姫の記述がなくなったという説があります。
『死亡説』
織田家の公式行事などに濃姫が居たという記述がないことから、結婚から本能寺の変の間に病気などの理由で死んだとされる説があります。
離縁されて明智光安の城に居た時に、信長の美濃攻めで城が落城した際に死亡したという説もあります。
『本能寺死亡説』
映画やドラマでは、本能寺の変で薙刀を振るって信長と一緒に戦う姿を目にしますが、本能寺の変の際に信長の家臣が濃姫の遺髪を携えて京から戻り、岐阜市の不動町にある西野不動堂(濃姫遺髪塚)に埋葬したとされる説もあります。
『生存説』
本能寺の変の後とされる時期に、濃姫と思われる「信長本妻」「北の方」「信長公御君」「信長内室」「信長公夫人」という名称で書物に記述があるので生きていたのではないかという説があります。
その中でも信長の次男・織田信雄が天正15年(1587年)頃に家族や家臣団をまとめた「織田信雄分限帳」に安土殿という女性が書かれていて、これが濃姫ではないかという説もあります。
安土殿には600貫文の知行があり、これは信雄の正室、信雄の妹に続いて3番目に多いとされ、とても地位の高い人、安土城の安土という名称を与えられていることから濃姫だと推測されるのです。
何故なら、4番目は信長の生母で5番目は信長の妹。3番目が濃姫だとしたら納得が行くのです。
平成4年の調査で、鷺山殿(濃姫の名前)の法名として「養華院殿要津妙玄大姉」と記されていたのが発見されました。そこには「慶長17年7月9日信長公御台」と書かれていたので、78歳まで濃姫は生きていたのではないかという説があります。
これらの説には、決定的な証拠がなく、濃姫の晩年や最後に関することは謎となっているのです。
おわりに
油商人から戦国大名になった下剋上の代名詞である斎藤道三、その斎藤道三の娘で、隣国の「尾張のうつけ」と評判の織田信長に嫁いだ濃姫は、まさに戦国大名の姫として波乱万丈の人生を送ったことでしょう。
道三の死後、肖像を寄進した後に歴史からその名前は消えて、現在に至るまで晩年や最後は謎のままです。
だからこそ、様々な作品で濃姫は創作され描かれ、本能寺の変で信長の隣で薙刀を持って戦って死んだとされる説、他方では明智光秀と恋仲で本能寺の変の黒幕だとされる説、78歳まで生きて信長の菩提寺・大徳寺総見院に埋葬された説など多数があり、その半生が謎ゆえに物語となるのも納得が行きます。
濃姫が信長、道三、光秀と共に激動の戦国時代を生きたことだけは真実なのです。
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