イザベラ・バード (1833~1904)は、19世紀に活躍したイギリスの探検家・写真家である。
明治時代の日本を訪れ、『日本奥地紀行』という紀行文を執筆した。
特に栃木県にある日光湯元温泉を気に入り、日本だけでなく朝鮮や満州、中国への旅の際には必ず立ち寄っていたそうだ。
この記事では、そんなイザベラ・バードの生涯について調べてみた。
病弱な少女が冒険家に
1831年、イザベラ・バードはイギリスのヨークシャーで、牧師の長女として生まれる。
当然ながら一家は敬虔なクリスチャンで、この教えは晩年のバードに大きな影響を与えている。
バードは幼少期、とても病弱な少女で、しょっちゅう病気をしていたという。
1854年、23歳のときに医師から転地療養を勧められ、アメリカとカナダに7か月間滞在することになる。
バードにとって、これが人生で初めての本格的な旅であった。
旅の素晴らしさに目覚めた彼女は2年後、この時の体験を紀行文として出版し、旅行作家としてデビューすることになった。
1876年、45歳の時にジョン・フランシス・キャンベルの著書『私の周遊記』を読んだバードは、世界旅行を思い立つ。
当時、女性が一人で世界各国を旅するということは前例がほとんどなく、周囲に反対されるが、ヨーロッパ大陸を経由して日本へ向かった。
その後、朝鮮、インド、チベット、ロッキー山脈、中国大陸など様々な国や大陸を旅しては、その旅の様子や現地民族の様子を母国へ紹介した。
72歳の時、イギリスのエディンバラで死去。世界中を旅する生活は、数十年間にわたったという。
『日本奥地紀行』の執筆
『日本奥地紀行』は、1878年6月から9月にかけて、東京から北海道(当時は蝦夷地と呼ばれていた)までの旅行の記録である。
二版からは関西地方の旅の記録についても追加されている。
明治維新当時の日本を事細かに描写しており、近代以前の日本を知ることのできる資料として、現在でも国内外で重宝されている文献である。
バードはこの旅の中でアイヌ民族とも交流しており、約300ものアイヌ語を採取したり、彼らの風俗や信仰、さらには当時の日本政府に対するアイヌ民族の考えをまとめている。
本州各地での旅では日本人の外見や髪・衣服の不潔さを辛辣に批判しているが、「日本ほど女性が一人で旅をしても危険や無礼な行為と無縁でいられる国はないと思う」と日本人のマナーの良さに敬服している。
また、山形県の米沢平野のことは「まったくエデンの園である」と絶賛し、日光の金谷邸(現在の日光金谷ホテル)も気に入って長期滞在したという。
バードの視点は好意的・悪意的どちらかに偏ることはなく、非常に中立的な立場で日本の様子を紹介している。
『日本奥地紀行』は現在も書籍として販売されているので、ぜひ一度読んでもらいたい。
イザベラバードの晩年
イザベラ・バードには、3歳年下の妹・ヘンリッタ(愛称ヘニー)が居た。
彼女らの仲は良好で、旅の途中に何度も手紙のやりとりを交わしていたという。
1881年にヘニーが亡くなり、バードは悲しみにくれるが、当時妹の主治医であったジョン・ビショップに支えられ、彼と結婚をする。
しかしこの幸せな結婚生活も長くは続かず、5年後にビショップは病死してしまうのである。
短い結婚生活であったが2人は深く愛し合っていたようで、ビショップの没後もバードは“ビショップ夫人”と名乗り続けている。
短期間の間に愛する人を続いて亡くしたバードだったが、彼女は晩年、敬虔なクリスチャンとしての教えを守り、他者のために生きることを決意する。
亡き妹と夫を偲び、インドのアムリッツァルに「ヘンリエッタ・バード記念病院」を、インドとパキスタンの国境付近・カシミールに「ジョン・ビショップ記念病院」を創立する。
世界各国やイギリス国内で、福祉活動や医療法の伝道の支援活動を行った。
旅や支援活動での実績が認められ、バードは1892年、王立地理学協会の特別会員に迎えられた。
さらに、翌1893年にはヴィクトリア女王への謁見を許されたのである。
最後に
イザベラ・バードは『日本奥地紀行』の中で、日本人の生活の様子を丁寧に描いたスケッチを残している。
また、日本での旅の中で、通訳として伊藤鶴吉という青年を雇い、「Ito(伊藤)」と呼んで多大な信頼を寄せていたと言う。
伊藤鶴吉は英語が非常に堪能で、米国大使館で働いていたという経験もあり、バードの旅の成功を影で支えた人物であると言える。
また、バードは『日本奥地紀行』だけではなく、『朝鮮紀行』という紀行文も執筆しており、その中ではソウルの町並みや環境問題について述べ、さらには国王夫妻と会見し、当時の王妃である閔(びん)妃とはまるで親友のような関係になったという。
明治維新直後、まだまだ未開の地として謎に包まれていた日本であるが、イザベラ・バードは、日本での旅を通じて、欧米諸国と日本の文化的橋渡しをしたのではないかと思う。
彼女の偉大な功績は、現在も私たちに多くのものを遺している。
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