東郷重位とは
TVや映画の時代劇で薩摩藩士が「チェスト」と叫び、気合と共に初太刀で勝負を決めるシーンをたまに目にする。
その剣法は「示現流」といい、生みの親が東郷重位(とうごうちゅうい / しげかた)なのである。
幕末の薩摩藩の志士たちが、心の支えとして子供の頃から学んでいた剣術が薩摩藩だけの流派「示現流」である。
戦国時代の後期の薩摩は、当時九州一円を席捲した剣豪・丸目蔵人(まるめくらんど)が創始した「タイ捨流」を島津家の剣術としていた。
そのタイ捨流の師範を打ち負かし、薩摩藩の剣術指南役になった示現流の剣豪・東郷重位について追っていく。
生い立ち
東郷重位は永禄4年(1561年)薩摩島津家の家臣・瀬戸口重為の3男として鹿児島で生まれる。
瀬戸口家は薩摩島津家の家臣・東郷家の縁戚にあたり、瀬戸口家は後に東郷姓を名乗った。
島津家の大名や家臣たちは、幼い時から九州一の剣豪として名高い丸目蔵人の高弟・東権右衛門が剣術指南役を務める「タイ捨流」を学んでいた。
タイ捨流の創始者・丸目蔵人とは、剣聖と名高い新陰流の創始者・上泉信綱門下の四天王として、新陰流を基礎にした独自の流派「タイ捨流」を興した剣豪である。
当時のタイ捨流は「東の柳生」「西の丸目」と並び称されるほど名の知れた流派だった。
重位も幼少の時からタイ捨流を学び、13歳の時には狼藉者を短刀で一突きにするほどの剛勇であった。
天正6年(1578年)18歳になった重位は、タイ捨流の免許皆伝を得るほどの腕前になり、大友氏との高城川の戦いで初陣を飾る。
この戦いで重位は初陣でありながら、首級を討ち取る武功を挙げている。
自顕流との出会い
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定の戦いに島津家は敗北し、重位は主君・島津義久に従って上洛する。
重位が上洛した真の目的は、内職のための金細工や蒔絵の技法の習得であった。
剣の腕は立ったが、重位の家は家臣の中でもあまり位の高い家ではなかったのだ。
重位はとても真面目な男で、旅先でも毎日の剣術の稽古を怠らなかった。
重位が滞在していた宿の隣は天寧寺という寺で、ある日、寺の小僧が宿に来て重位に天寧寺の善吉という和尚の言葉を伝える。
「隣のお客人は剣術を心掛けて誠に奇特な御仁ではあるが、まだまだ素人のようだ。立木を打つ音を聞いていればそれが分かる。」
と和尚は話したという。
その言葉を聞いた重位はすぐに寺を訪ねて善吉和尚と話をしてみると、和尚は剣に対してかなり造詣の深い人物であった。
しかし、肝心なところになると「自分の流儀とは違う」と言って重位に多くを語らなかった。重位はその後もしばしば寺を訪ねて和尚に教えを乞うが、和尚は教えてはくれなかった。
これを最後の日と決めて訪ねたが、やはり何も得られずに帰ろうとする際に、重位は障子に映る月影を見て「にごりえに映らぬ月の光かな」と一句を詠んで帰った。
その句を見た和尚は重位の剣にかける志の深さを知り、重位を呼び戻して自らの流派「自顕流」の極意を見せた。
和尚はホウキを八相に構えて気合を発する。勇壮なその姿に惚れ込んだ重位は、その場で和尚に弟子入りを志願した。
この時、重位は28歳で、善吉和尚は23歳ほどであったという。
自顕流とは
善吉和尚の出家前の名前は赤坂弥九郎といい、天真正自顕流を金子新九郎に学んで17歳で免許皆伝を得た。
天真正自顕流とは金子新九郎の師・十瀬長宗が天真正伝香取神道流を学んだ後に、鹿島神宮に参籠して開眼した流派だった。
天真正伝香取神道流とは、上泉信綱と並び称されるもう一人の剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)が学んだ流派で、当時の名のある剣豪の基礎をなしていたとされる流派である。
重位は自顕流の習得に励み、伝書の「尊形」「聞書」「察見」の3巻を授けられ、自顕流の技40を修得して、翌年の天正16年(1588年)に免許皆伝となった。
示現流へ
薩摩に帰国した重位は、和尚から授かった天真正自顕流に自らの工夫を加えて(一説ではタイ捨流と融合させた)技に磨きをかけていく。
その修練は凄まじいもので、3年間昼夜を問わず屋敷にあった柿の木を木刀で打ち込んだために、その柿の木は立ち枯れするほどだった。
重位の剣の噂は薩摩藩士に知れ渡り、腕に覚えのある剣士から他流試合を申し込まれるようになった。
その他、流試合の数は46回に及んだが、重位はただの1度も負けず、しかも相手から求められれば門弟として迎え入れて剣を教えた。
多くの門弟を抱えた重位の名前は薩摩藩主・島津家久の耳に届き、慶長9年(1604年)家久の命でタイ捨流の元の師・東権右衛門と立ち会うことになった。
その立ち合いは合計47回に及び、重位が勝利して島津家の剣術指南役と地頭職に就いた。
なおこの時、理由は定かではないが逆上した家久が重位に斬りかかったが、丸腰の重位がとっさに腰に差した扇子で、家久の手を打って刀をかわしたという逸話が伝わっている。
勝負に負けた東権右衛門は、薩摩の国を出て行ったそうである。
家久は重位の剣を薩摩の剣として重んじて、他国に伝えることを禁じた「御留流」として重位の兵法が流儀を絶やさぬようにと命じた。
また、臨済宗大龍寺の僧・南浦文之に新たな流派の名を考案させた。
南浦文之は観音教の「示現神通力」から示現の文字を取り「示現流」と改称した。
家久によって重用された重位の剣術・示現流は薩摩中に急速に広まっていくことになり、薩摩独自の兵法として示現流は代々の藩主によって重用されていくことになる。
東郷重位の人となり
重位は生涯で四十余度の立ち合いを経験して、十余人を上意により討ち取った。その間一度も敗れることはなかったとされている。
元和8年(1622年)江戸で柳生流の剣士・福町七郎と寺田勝助を破ると、二人は示現流の強さにすぐに門人になったほどである。
藩主の命で橋口小藤太を上意打ちにした時には、重位は60歳を超えていたとされている。
剣豪と呼ばれる人の多くは血気盛んで自分から試合に挑んでいくが、重位にはそれが見受けられないのだ。
重位は示現流とは「自分が大切にしている刀をよく研ぎ、よく刃を付けておき、針金で鞘止めをして、人に無礼を言わず、人に無礼をせず、礼儀正しくキッとして、一生刀を抜かぬものである」と話した。
これは「無益な殺生を戒めて、危急の際には迷わずに無念無想に打つ」というのが示現流の極意とした。
つまり無用な争いを避けることを第一とする、しかし、どうしても刀を抜かなくてはならない時は一切迷わずに無念無想で両断する、それだけの備えを常に怠るなという意味である。
重位はとても礼儀正しく事を荒立てない性格で、稽古が終わるとたとえ幼少の弟子であっても、必ず玄関まで見送ったという人物であった。
寛永20年(1643年)6月27日、83歳で亡くなった。
おわりに
示現流というと幕末の薩摩藩士「人斬り半次郎」こと中村半次郎の初太刀に全力を込めて、かわされると終わりという荒っぽいイメージを持つ人が多いはず。開祖の東郷重位はとても礼儀を重んじる人格者であり、中村半次郎の示現流とは実は流派が異なる。
初太刀を外すともうダメというイチかバチかの剣術ではなく、刀を抜かないことが1番で、どうしても抜く場合は初太刀で仕留める覚悟を持てという教えであった。
善吉和尚が自顕流の伝書「尊形」「聞書」「察見」を託すにふさわしい人物だと選んだ男が剣豪・東郷重位なのだ。
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