アニメーションの始まり
映像技術が発明される前は、残像効果を利用したものが動く絵の最初でした。
もっとも有名なものは1825年に発売された、ジョン・エアトンの「鳥かごに入る鳥」です。
丸い紙の表に空の鳥かごを、裏に鳥の絵を描き、高速で回転すると鳥かごに鳥が入っているように見えるというものです。
フェナキストスコープ(おどろき盤)
1831年にベルギーのジョセフ・プラトーとオースとリアのSimon von Stampferによって同時に考案されました。
軸に垂直に取り付けられた円盤にコマごとの絵が描かれており、コマの間にスリットが開いています。
円盤を回転させ、絵を鏡に映して動くスリットから覗くと動いているように見えるものです。
その後、1834年にウィリアム・ホーナーによって回転のぞき絵が発明されます。
側面に複数のスリットが入った筒を回転させて、内側に書かれた静止画が次々と入れ替わりあたかも動いて見えるというものです。
フリップブック(パラパラマンガ)
1868年John Barnes Linnettが最初に特許を取得しました。
プラキシノスコープ
1877年フランスのエミール・レイノーが発明しました。
ゾートロープが回転するスリットを除くのに対し、軸を鏡で囲ってその鏡に反射する絵を見る構造でした。ゾートロープに比較すると像が明るくゆがみが小さく見えました。
フィルムアニメーションの始まり
テアトル・オプティーク
1888年にエミール・レイノーによって発明された大型の上映装置は、回転するドラムにレイノー自身で描いたゼラチンフイルムをはめ込み画像を光源の前に送り込んで、投影するというものです。
1892年パリのグレヴァン蝋人形館で最初の動画公演を行います。
「哀れなピエロ」「一杯のビール」「道化師と犬」の3本でピアノ伴奏がつけられ上映時間は15分間でした。
この公演は1900年まで続けられ50万人の観客が目にしました。
キネトスコープとシネマトグラフ
1891年エジソンによって発明されました。箱の中に入ったフィルムを一人で覗きながら動かして動画をみるものです。
1895年フランスのルミエール兄弟がフィルムを幕に映写する機械を発明。現代の映画と同様の技術でした。
これらの技術がアニメーションに使用されるのはこのあと10年前後の時を要します。
ストップモーションアニメのCM
第一次世界大戦ごろアーサー・メルボルン・クーパーによって、ボーア戦争で戦う軍人の支援のために制作されました。
スタンダードフィルムの最も古いアニメーション
1906年にジェームズ・スチュアート・ブラックトンによって、ストップモーションカットアウトアニメーションの特徴を備え、黒板に描かれたチョークの絵を用いたアニメーション映画「愉快な百面相」が作られました。
実写を含まない手書きのアニメーションの始まり
1908年、フランスのエミール・コールが「ファンタスマゴリー」という映画を製作します。
より詳細な背景や文字などをアニメーターのチームで描く作品が作られます。
ウィンザー・マッケイの1911年の「リトル・ニモ」、1914年の「恐竜ガーディ」、1918年の「ルシタニア号の沈没」は成功を収めました。
セル画の発明
1914年、セル画によるアニメーション技術がアール・ハードによって開発、特許申請されます。
現存する最古のアニメーション映画
1926年の影絵アニメ「アクメッド王子の冒険」はカラー着色フィルムを使用していました。
ウォルト・ディズニーによるトーキーとフルカラーアニメーション
1928年にアニメーションとしての初の本格的トーキー「蒸気船ウイリー」を製作。
1932年フルカラーの最初のアニメーション「花の木」はアカデミー賞を受賞します
テレビのアニメーション
1960年のアメリカでハンナ・バーベラによって「原始家族フリントストーン」が発表されました。
CGIアニメーション
世界最初のコンピューターグラフィックによるアニメ映画は、1995年のピクサーの「トイ・ストーリー」です。
日本とアジアのアニメーション
1941年中国の「西遊記 鉄扇公主の巻」がアジア発の長編アニメーションとなります。
1942年に戦時下の日本で公開され、当時16歳だった手塚治虫に影響を与えました。
日本におけるアニメーションの歴史
1900年に国産初のアニメーション映画「ニッパールの変形」を製作、1909年に発表。
サイレントアニメの時代、洋画アニメと比べると製作費が高い日本のアニメは、ディズニーの短編などに人気を取られ苦戦を強いられていました。
その後、公共機関の広報・宣伝用アニメなどの製作で国産アニメの制作基盤が出来かけた頃、1923年の関東大震災によって日本のアニメ界は大打撃を受けることとなります。
1929年のトーキー映画、1932年のカラーフィルムにも対応できず日本アニメ界暗黒の時代が続きますが、その間の1926年、大藤信郎の「馬具田城の盗賊」という千代紙アニメが発表されて国際的評価を得ます。
1945年4月12に「桃太郎・海の神兵」が公開。戦意高揚のための漫画映画で、日本アニメ史上初のモノクロ74分長編劇場用作品でした。
終戦後、GHQがアニメ作家を焼土の東京に召集。がちがちの軍国主義思想を民主主義への思想転換にする道具として、アニメを作らせようとするもまとまらず、作家たちは、迷走のあげく解散となります。
東映アニメーション発足
1956年に東映動画が(のちの東映アニメーション)が発足されます。
香港の会社からの持ち込みの「白蛇伝」を製作しました。
(白蛇伝に感銘を受けた宮崎駿は1963年に東映動画に入社。アニメーターとして活躍しながらいろんな会社を転々とし、「アルプスの少女ハイジ」「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」を手掛けます。スタジオジブリが立ち上がるのは、まだしばらく先となります)
虫プロダクション設立
1960年手塚治虫が虫プロダクションを設立。
日本発の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作します。
鉄腕アトムは、スポンサーとタッグを組んで製作を行うマーチャンダイジング方式で、以降のテレビアニメの基本的なビジネスパターンとして定着していきます。
鉄腕アトム人気で作品の傾向は、SF、宇宙もの(鉄人28号・エイトマンなど)主流となっていましたが、続いて魔法少女もの(魔法使いサリー・ひみつのアッコちゃんなど)も大人気となります。
1968年にスポーツ根性もの「巨人の星」が製作されます。
翌年1969年にホームドラマアニメ「サザエさん」がスタートし供給過剰競争は激化していきます。
1971年のドルショック、1973年のオイルショックの影響で、1972年に制作コスト高で赤字続きの東映動画は労使関係が悪化、1972年に指名解雇が起こります。次いで73年に虫プロが倒産(その後、手塚に代わり労組が主導する形で現在まで存続)
宇宙戦艦ヤマトが社会現象に
日本アニメ冬の時代に新しい風を吹かせたのは1974年テレビシリーズ、1977年の劇場版公開の「宇宙戦艦ヤマト」です。ヤング層の圧倒的人気沸騰ぶりが社会現象になりました。
1978年、アニメ関連のイベントがデパートの屋上などで次々と開催されるようになります。
同年劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」が公共収入43億円、配給収入21億円という日本映画史上記録的な大成功を収めます。
アニメ雑誌「アニメージュ」も同年創刊とアニメ人気は沸騰します。
その後も、近代アニメーションの歴史は「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」などにより大きく塗り替えられていきます。
アニメは下火に
1992年のバブル崩壊と平成の大不況を経て、広告不況、少子化などと相まり、2006年をピークにテレビアニメの本数は下降します。
民法キー局の本数減とともに、ローカル局、衛星局、通信系の本数が増え、テレビ局の下請け的な作品が増え、製作費も劣悪な場合が増えています。
1995年の最初の3D-CG連続アニメ「ビット・ザ・キューピット」の放送開始。1997年富士写真フィルムがセルの生産を停止、それを機に東映動画は全作品をセル非使用に、2013年には「サザエさん」もセル非使用となり、セルアニメは実質上消滅します。
現在では、アニメーションというと子供向けのコンテンツのみを指す言葉ではなく、老若男女、様々な人への需要に応える作品です。製作費削減を補うために複数の企業が製作費を出し合う製作委員会方式が誕生し、製作費を補う形が生まれました。
1998年には国によるアニメ産業育成を図る「文化庁優秀映画作品賞」が制定されました。
2004年から2020年まで2度の改正が行われながら、アニメ映画や漫画などの日本のソフト産業の保護・育成を官民一体で取り組む「コンテンツ促進法」が現行法として機能しています。
日本のアニメは海外の若者たちに圧倒的な人気を博し、海外の大人たちに「安っぽく・激しい暴力表現・露骨な性描写」を問題視され「ジャパニメーション」と蔑称され排斥論が上がる時代もありましたが、増え続けているアニメファンに「ジャパニメーションを超えるアニメをわが国でも」との声が諸外国で広がり、「ジャパニメーション」の解釈意義は向上したと言えます。
現在、日本は映像技術にこだわり、世界有数のアニメ大国となっています。
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