津軽為信とは
津軽為信(つがるためのぶ)は、戦国時代に津軽地方を統一して弘前藩の初代藩主となった人物である。
下剋上の戦国時代に為信は「我、天地人に制せられず」を座右の銘に、人を恐れず神仏も恐れず善悪の見境なく、奇策・急襲・毒殺を用いて戦国大名となった人物だ。
梟雄と言われ、常識では考えられない戦術を用いた津軽為信について追っていく。
生い立ち
津軽為信の生誕については幾つかの説や伝承がある。
生年は天文19年(1550年)1月1日、陸奥国(現在の青森県)南部氏の氏族で下久慈城主・久慈信長の子とされる説と、大浦城主・大浦守信の子という説がある。
永禄10年(1567年)に大浦城主・大浦為則が為信を養子として迎えて、娘の戌姫(阿保良)と結婚して後継者に迎えられた。
結婚後すぐに為則が死んだために、為信は18歳で大浦家の家督を継いだ。
城主となった大浦為信は家臣に武具着用の緊急招集をかけて、収穫が終わったばかりの領国内の野崎村に夜襲をかけて焼き払わせた。
これは為信が家臣の忠誠心を試す訓練だった。
実は野崎村の農民たちには事前に家財道具を安全な場所に移動させて、しかも焼けた家は新しく建ててやった。
農民たちは面白い殿様だとびっくりしたという。
家督を継いだ時に為信は畿内で台頭してきた織田信長の活躍を知り、近隣の最上義光から諸国の情報を集め、津軽統一の野望を抱いた。
石川城攻め
当時の東北地方は南部晴政の南部氏が勢力を拡大していた。
内情は強固なものではなく、男子がいなかった晴政は娘婿・石川信直(南部信直)を後継者としていた。
しかし、晴政に男子が誕生したために、晴政と信直は争いを始めてしまう。
ここを好機とした為信は元亀2年(1571年)南部氏の津軽での拠点の城である石川城主・石川高信(南部信直の実父)への謀反を画策する。
ここで為信は思いもしない策を用いて石川城攻めを始めた。
まず為信は高信に媚を売って信頼させ、石川城の近くにある自分の堀越城の改修の許可を得て、武器を建築資材に紛れ込ませて運び込んだ。
そして、お色気満々の22歳の自分の妻・戌姫に、博打場で雇ったならず者87人へ花染めの手ぬぐいに握りたての飯を包んで与えさせ、城内の女を襲うよう指示した。
色香に触発されたならず者は我先にと石川城へと突入し、婦女子を手籠めにしてしまう。これによって城の将兵は妻や娘たちが心配で戦に集中できない状態となった。
その隙に為信の軍勢が急襲して敵を討ち取り、高信を自害させた。
その勢いのまま朝に石川城を落とすと、昼前に和徳城を攻めて南部家の重臣・小山内親子を殲滅する。
1日に2度の城攻めという、常識はずれの奇策で相手の隙をついたのだった。
実はこの頃、為信は軍師として沼田祐光(ぬまたすけみつ)という人物を大浦家に迎い入れている。
彼は陰陽道・易学・天文学にも通じていて朝廷にも顔を効く、伝説の軍師だったとされている。
梟雄(きょうゆう)
梟雄(きょうゆう)とは残忍で強い人や悪者などの首領という意味である。
斎藤道三・松永久秀・宇喜多直家は戦国乱世の梟雄と呼ばれたが、為信も津軽の梟雄と呼ばれる策を用いた。
有岡城にいる郡代の石川政信に取り入ろうとした為信は自分の妹・久を政信の側室に送り込む、久を寵愛した政信は為信に心を許し重用する。そして為信は宴席の時に毒を盛って妹・久もろとも政信を毒殺してしまう(但しこれは南部側の史料で、当時は既に為信が津軽を制しており信憑性は高くないとされる)
また、雪が積もる冬には戦をしないのが常識だったが、為信は兵にかんじきを履かせて雪に埋もれた大光城を攻めている。
また、城に間者を潜り込ませ放火をさせて混乱したところを攻撃するなど、ありとあらゆる策を用いている。
名将と呼ばれていた石川城主・石川高信を亡くした南部氏は津軽地方に干渉するほどの余力を失い、それをいいことに為信は次々と領地を広げていく。
六羽川の戦い
為信の横暴に耐えかねた南部氏・浪岡氏・安東氏の勢力(命を受けた比山氏ら連合軍)と天正7年(1579年)六羽川の戦いとなる。
為信の大浦勢は次第に劣勢となり本陣も攻められて苦しくなるが、為信の忠臣・田中太郎五郎が為信だと偽って相手方の比山勢に突撃して討ち取られる。
為信を討ち取ったと思い込み油断した比山勢に為信らは反撃し、大将の比山六郎を討ち取る。大将を失った比山勢は総崩れとなって退却し、為信はギリギリで勝利を収めた。忠臣、田中太郎五郎の子孫は後に優遇され、碑も建てられている(津軽忠臣之碑 ・ 田中太郎五郎戦死之跡 (平川市))
天正12年(1582年)南部晴政が死去し、南部家の後継者は石川信直(南部信直)となった。
信直の父の仇である為信と南部氏との敵対関係は、余計に強くなっていく。
豊臣秀吉に臣従
南部氏との敵対関係が強くなったが、為信は南部氏が背後の反乱を恐れて動けないことをいいことに、一気に津軽統一への動きに出る。
織田信長の死後、急激に力を増した豊臣秀吉に臣従して安堵状を貰えれば、津軽の所領は自分のものになると最上義光から情報を得た為信は、昔津軽に公家の近衛家が漂流したことを利用しようと一計を案じる。
為信はかつて漂流した近衛家の落とし子の末裔だとして、たくさんの金品を持って家臣を京都に向かわせて近衛家工作をさせる。
実は秀吉も関白になる際には近衛家に入って藤原姓を与えられてから関白になっていた。当時の公家は財政に苦しんでいたという事情もあった。
為信の計略は成功し、近衛家は為延に藤原姓と家紋の牡丹紋を与え、秀吉への紹介状まで書いてくれたのだ。
一方、南部氏は前田利家を頼って、為信は秀吉の惣無事令に違反したと征伐の対象だと画策をしていた。
そこで為信は小田原征伐にいち早く駆けつけて、紹介状を持って秀吉に謁見して恭順の意を示した。
さらにその前にも南部氏に先駆けて工作していた。秀吉の家臣・石田三成と懇意になり三成を介して名馬と鷹を献上し、鷹狩りを好む豊臣秀次や織田信雄とも懇意となっていた。
為延は一時は南部氏の攻略で征伐対象にされかけるも、こうした工作が功を奏して津軽三郡(平賀郡・鼻和郡・田舎郡)と合浦一円の所領を安堵することに成功する。
為信はようやく独立した大名となり、「大浦」姓を捨ててこの時から「津軽為信」と名乗る。
秀吉のもとでは九戸政実の乱の討伐、朝鮮出兵、伏見城の普請など武功を挙げて、自らの居城を大浦城から堀越城へと移している。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、為信の嫡男・信建が豊臣秀頼の小姓を務めていたために嫡男のみ西軍につかせ、自分は三男・信枚と共にと徳川家康の東軍について、真田氏同様どちらに転んでもいい良い策を採った。
関ヶ原の戦いに向かう前には、謀反を起こしそうな家臣を暗殺するなどしている。
しかし、家臣の中の石田三成と親しかった者が500の兵で反乱を起こして堀越城を占拠してしまう。
だが、三成が負けたことによって反乱軍は戦意を失い鎮圧された。
慶長8年(1603年)新城として弘前城の築城を開始。
慶長12年(1607年)嫡男・信建の見舞いに京都に向かったが、到着前に信建は病死してしまう。
そして為信も京都で体調を崩し、弘前城の完成を見ずにその年の12月に亡くなった。享年58歳であった。
おわりに
津軽為信と正室・戌姫(阿保良)は仲が良く二人三脚で国盗りを行ってきたが、二人の間には子供が出来なかった。
豊臣秀吉も正室・ねねとの間に子供が出来なかった。
英雄色を好むごとく側室を沢山持ったこと、天才軍師の黒田官兵衛と沼田祐光がいたことなど二人は共通する点が多々あった。
弘前城の開かずの扉には「館神」が安置されており、明治時代になって開けてみるとそこには秀吉の木像が入っていたという。
為信は梟雄と呼ばれるほど非情な策を用いてきたが、自分を大名にしてくれた秀吉を神として祀っていた。
また三国時代の関羽のことも尊敬しており、長い顎髭を伸ばしていたという逸話もある。
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