鎌倉時代

「いい国作ろう鎌倉幕府」はもう古い!歴史教科書の今と昔

最近の語呂合わせは「いい箱作ろう鎌倉幕府」と暗記する

日本史の出来事を語呂合わせで暗記する人は多いのではないでしょうか。昔、習ったことは年齢を重ねても覚えているものです。

ところで、鎌倉幕府の成立の時期、西暦何年から鎌倉時代となるか、みなさんご存知でしょうか。わたしが中学校で歴史を習った頃は鎌倉幕府の成立は「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」という最強の語呂合わせで覚えました。

最近の歴史の授業では、鎌倉幕府の成立は「1185年」と教えるのが一般的で、語呂合わせも「良い箱(1185)作ろう鎌倉幕府」に変わっています。日本の歴史は、日々さまざまな発見や考えたの変化で、歴史の常識が変わってきています。

鎌倉幕府は、始めた武士の政権

日本の歴史では、武士が700年ものあいだ政治を行っていた時期があります。

この武士が行う政治を説明する上で欠かせないのが、今から800年以上前に誕生した鎌倉幕府です。鎌倉幕府とは、一体どんな政権だったのでしょうか。

時代の流れを少しだけ確認

「いい国作ろう鎌倉幕府」はもう古い!歴史教科書の今と昔

※源頼朝

1180年に、伊豆にいた源頼朝、木曽の源義仲などが、平家を倒そうと兵をあげ、全国的な内乱が始まりました。その時、源頼朝は鎌倉を本拠として指揮をとり集まってきた武士と主従関係を結び御家人として、武士の政治の仕組みを整えていきました。

源頼朝は、弟の義経らを派遣して、平氏を追って西へ進ませます。そして、1185年に壇ノ浦の戦い(山口県)で平氏を滅ぼしました。その後、頼朝は、対立して姿を隠した弟の義経を捕らえようとして、朝廷にせまり、国ごとに守護を、荘園や公領に地頭をおくことを認めさせます。この役を御家人が行いました。1189年、義経は頼朝から逃れて身を寄せていた奥州の藤原の軍勢に館を襲われ、自害します。

そして、1192年、源頼朝は武士の総大将として征夷大将軍に任じられます。しかし、源氏の支配は長く続きませんでした。頼朝が亡くなり、頼朝の二人の息子が将軍を継ぎますが、両者ともに若くして殺されてしまいます。

そこで頼朝の妻の北条政子と、その実家の北条氏が次第に幕府の地位を独占するようになり、執権という地位について政治を行います。

源義経は、どうして兄と不仲になってしまったのか

「いい国作ろう鎌倉幕府」はもう古い!歴史教科書の今と昔

※盗賊の熊坂長範と戦う義経。伝説では、この時、義経は15歳であったという。

源義経は平家を倒したにも関わらず、なぜ兄の頼朝と対立し、鎌倉を追われて奥州に逃げ、殺害されるという悲劇のヒーローになったのでしょうか。

義経は京都で生まれ、7歳で平清盛により鞍馬寺に入れられ出家させられます。牛若丸16歳の時に鞍馬山を出て、奥州を目指して流浪の旅に出ます。そこで、奥州藤原氏と出会います。17歳で元服し、幼少期の牛若丸から源九郎義経と名乗るようになります。22歳の時に兄の源頼朝と対面します。

義経は幼少の頃から、平家に父を殺され、家族がバラバラになったことから平家を滅ぼしたいと密かに修行を続けていました。27歳の時に兄の頼朝と共に平家を追い詰め、屋島の戦いで平氏を破り、悲願だった平家の滅亡を果たしました。

兄の頼朝は、功績を上げた弟の義経に対して家臣の1人として扱っていましたが、弟の義経は頼朝の家臣という自覚が全くありませんでした。そんな義経は、兄の許可なく朝廷から官位を受取ってしまい義経を怒らさせてしまいます。

義経は、兄の激怒から鎌倉から追放されることになり、幼少期に京都の鞍馬山から逃げてきた時にかくまってくれた奥州藤原氏の所へたどり着きかくまってもらいます。兄の頼朝は、奥州藤原氏の所に逃げたことを知り、鎌倉からの再三の圧力をかけました。ついに藤原氏は、圧力に負けて義経を裏切ります。義経は、31歳の短い生涯を終えました。

その後、奥州藤原氏は頼朝軍により滅ぼされ、約800年におよぶ平泉の栄華も終わりを迎えてしまいます。

今の中高生は、1185年に鎌倉幕府成立と覚える

改めて、鎌倉幕府が成立した時期「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」となったその頃の時代の流れをもう一度、確認してみましょう。

源頼朝の東日本の支配権を朝廷が認めたのが1183年、源氏が壇ノ浦の戦いで平家を破り、源頼朝が朝廷に全国に守護・地頭の設置を認めさせたのが1185年となります。源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年になります。そして、鎌倉でスタートした武士の政権、鎌倉幕府は約140年も続きます。これが歴史上の流れです。

現在の中学歴史教科書の多くは、1185年に全国に「守護・地頭」を設置したことから、この時点で幕府が成立していたという解釈になっています。

しかし、幕府の成立の時期は諸説あるため、はっきりとは決められていません。教科書などにも、そのように記載がされています。

歴史は解釈の違い、新しい発見によって覚える内容が変わることがことがあります。そう考えると日本の歴史は、面白いですね。

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 北条政子の尼将軍と呼ばれた人生 「日本三大悪女」
  2. 足利直義について調べてみた【室町幕府の副将軍と呼ばれた弟】
  3. 源頼朝は伊豆の流人からどうやって将軍になれたのか?
  4. 坂口螢火氏の傑作〜 曽我兄弟より熱を込めてを読んで 【曽我兄弟の…
  5. 小田原梅まつりに行ってみた
  6. 『鎌倉幕府の実態』 幕府と朝廷の二元的支配だった〜 「守護、地頭…
  7. 百人一首の謎について調べてみた
  8. 北条家最後の当主〜 北条時行の逃げまくりな人生 「逃げ上手の若君…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

軍師・官兵衛「もう一つの関ヶ原」 天下統一を狙っていた可能性

天才軍師豊臣秀吉の天下統一を支えた一番の功労者は、言わずと知れた天才軍師・黒田官兵衛(く…

ポータブルヘッドホンアンプとは 【ワンランク上の音質】

スマホで音楽を聴くのが当たり前になって、周辺機器も充実している。ライトユーザーでもイヤホンを変え…

武田勝頼の滅亡は外交にあり。長篠の大敗から7年間の迷走【どうする家康】

長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)で大敗を喫し、多くの将兵を喪ってしまった武田勝頼(演:眞栄…

板倉勝重 ~内政手腕のみで幕府のNo.2に出世した名奉行

板倉勝重とは板倉勝重(いたくらかつしげ)は、徳川家康に仕え、京都所司代として西国地方の大…

「我思う故に我あり」近代哲学の父ルネ・デカルト

我思う故に我ありこの言葉は聞いたことがあるという人も多いと思う。近代哲学の父ルネ・デカルトは…

アーカイブ

PAGE TOP