金森長近とは
金森長近(かなもりながちか)は織田信長の親衛隊(赤母衣衆)の一人で、信長の死後は柴田勝家・豊臣秀吉・徳川家康とうまく立ち回り戦国時代を生き抜いた武将の一人である。
大きな作戦を任せられるような活躍は無かったが、信長の暗殺計画を阻止するなど類まれな判断力で渡り歩き、85年もの長寿をまっとうした武将・金森長近について追っていく。
生い立ち
金森長近(かなもりながちか)は大永4年(1524年)美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)で金森定近の次男として生まれる。
父・定近は美濃の守護・土岐氏の一族の土岐頼武の家臣であったが、後継者争いに敗れて主君が失脚したために、天文10年(1541年)までは近江で過ごしていた。
18歳になった長近は近江を離れて尾張の織田信秀(織田信長の父)に仕える。
その後、信秀が亡くなると嫡男・信長が後を継いだ。当時の信長は「尾張の大うつけ」とも呼ばれていたが、長近はここで信長につく決断をした。
信長時代
信長の暗殺を阻止
織田信長と共に美濃攻めにも従軍し、その活躍が認められて永禄2年(1559年)信長が初めて上洛した時の80人の同行者の一人となっている。
この時に美濃の斎藤義龍が、密かに信長の暗殺を画策して刺客を放った。
幸い尾張からの使者・丹羽兵蔵が信長の暗殺計画に気付き、そのことを長近に知らせる。
美濃の刺客らと顔見知りだった長近は挨拶をするためと嘘をつき刺客の宿を訪ねた。
そして、「お前たちの行動はばれているからこのまま帰れ」と諭して信長暗殺計画を阻止している。
赤母衣衆に選ばれる
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長はたった2,000の兵で25,000の今川義元に奇襲をかけて討ち取ったが、この戦いでも長近は武功を挙げている。
その後の美濃攻めにも従軍し活躍が認められ、赤母衣衆(あかほろしゅう)に選ばれている。
信長は黒母衣衆と赤母衣衆を作り、特に優秀な家臣をそれぞれ10人ほどを選抜し、側近の馬廻衆(うままわりしゅう)として側においた。
その近臣の中に32歳だった長近も抜擢されたのだ。
赤母衣衆の代表的な武将は前田利家、黒母衣衆は佐々成政で、後に2人は有名な大大名となっている。
長近は元々の名前は「可近」であったが、天正3年(1575年)の長篠の戦いの武功を認められ、信長から「長」の一字を賜り「長近」と名乗った。
越前の一向一揆では柴田勝家らと共に戦い、わずか数ヶ月で平定した戦功が認められ、越前国大野郡の3分の2にあたる越前大野と大野城と石徹白の3万石を与えられて、とうとう大名の仲間入りを果たす。
この後は柴田勝家の北陸方面軍に属して与力となって活躍し、天正10年(1582年)の甲州征伐では飛騨口の大将を務めた。
秀吉時代
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長は明智光秀に謀反を起こされ自害してしまう。
長近の嫡男・長則は、この時に二条御所の織田信忠と一緒にいたために討死してしまった。
長近は主君と嫡男を弔うために、臨済宗大徳寺に金龍院という塔頭を建てている。
その後、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が深まると長近は勝家につくことにした。
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは最初は勝家側として秀吉と対峙した。しかし、熟慮の上に秀吉につくことを決め前田利家と共に撤退し、秀吉の傘下に入ることを決断する。
秀吉に許しを請うために長近は剃髪して「兵部卿法印素玄」と号した。
その行動が良かったのか秀吉に許されて、その後は小牧・長久手の戦いで武功を挙げている。
その後、秀吉に敵対する佐々成政が飛騨の三木自綱と結ぼうとした、そこで秀吉は隣国の長近に三木自綱の討伐を命じる。
長近は飛騨に攻め入り短期間で飛騨を平定。その功績として天正13年(1585年)に飛騨国38,700石を秀吉から与えられた。
長近は高山城を築城して城下町を発展させていき、普請(土木工事全般)技術を秀吉に買われて秀吉の城の建設にも幾つか関わっている。
そして秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:主君のそば近くで話相手をする役)の一人となり、秀吉が晩年に病に侵され有馬温泉に湯治に行った際には、長近がおぶってお湯に浸からせたという逸話もある。
また、長近は茶の湯を好み千利休に学び、秀吉を何度も自分の茶室に招いたという。
家康時代
秀吉の死後は、信長時代から付き合いがある徳川家康につく決断する。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは養子の金森可重と共に東軍につき、前哨戦となる郡上八幡城攻めで武功を挙げる。
関ヶ原の戦いの後に長近と家康は岐阜城に登り、信長以来の思い出話をしたという。その時に家康から論功行賞の話をされたが、長近は固辞した。
すると家康はなかばゴリ押しのように美濃国の上有知藩(現在の岐阜県美濃市)18,000石と河内国金田(現在の大阪府堺市)3,000石を加増し飛騨守に推挙して、長近は初代の高山藩主となった。
慶長10年(1605年)には飛騨高山に小倉山城を築城して、家督を可重に譲って長近は小倉山城に隠居した。
それから3年後の慶長13年(1608年)8月12日、京都の伏見で死去する。
享年85歳、戦国大名の中でもかなりの長寿であった。
おわりに
金森長近は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、誰が次の支配者になるかという判断を見誤ることなく戦国時代を生き抜いた勝者の一人である。
武勇だけではなく千利休や古田織部といった茶の湯の名人の門人でもあり、信長や秀吉の築城技術を自分の高山城や小倉山城に取り入れ、特に庭園にこだわるという風流な一面も併せ持った人物だった。
現在も人気の観光地となっている飛騨高山の武家屋敷の街並みは、金森長近が領主となって発展したのである。
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