毛利輝元とは
毛利輝元(もうりてるもと)は毛利元就の孫であり、幼くして大大名家の跡取りとなった、いわばお坊ちゃん大名である。
小早川隆景と吉川元春という極めて能力の高い優秀な二人の叔父の力もあり、毛利家最大版図を獲得し、多くの危機も乗り越え豊臣政権では五大老となる。
しかし関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将という立場にありながら大坂城から動かずにいたために、無能な総大将と揶揄されてしまった毛利輝元について迫る。
生い立ち
毛利輝元(もうりてるもと)は天文22年(1553年)毛利隆元の嫡男として安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)に生まれる。
祖父・毛利元就は弘治元年(1555年)厳島の戦いで陶晴賢を破り、弘治3年(1557年)には西の大大名の大内氏も破り、領地を急速に拡大していた。
永禄6年(1563年)輝元が11歳の時に父・隆元が出陣先で急死してしまい、毛利家の家督を継ぐことになった。
しかし輝元はまだ幼かったために、毛利家の舵取りは祖父・元就が行うこととなった。
突然の急死を悲しんだ元就は、隆元の死の前日に接待していた家臣の毒殺を疑い、その家臣を謀殺するほどであった。
永禄8年(1565年)に13歳で元服し、当時の将軍・足利義輝から「輝」の字を賜り「輝元」と名乗り、この年に尼子氏との戦いで初陣を飾る。
輝元が15歳になると元就は隠居しようとしたが、輝元は祖父に隠居をしないように懇願している。
苦労知らずの3代目とは言え、元就も「輝元は情けない」と人に漏らしていたという。
まだ15歳の輝元には拡大した毛利家をうまく運営していく力や自信もなく、叔父の吉川元春や小早川隆景、福原貞俊、口羽通良の「御四人」が輝元の政務を補佐した。
特に小早川隆景は教育係を務めて、家臣の目の届かないところで厳しく輝元を指導していたという。
永禄9年(1566年)には尼子義久を降伏させて長年の宿敵・尼子家を滅亡させた。これによって出雲国(現在の島根県)を手中にして中国地方最大の大名となった。
信長との争い
元亀2年(1571年)祖父・元就が亡くなる。当時の輝元は18歳で、2人の叔父(小早川隆景と吉川元春)の指導を受けながら毛利家のために将軍・足利義昭と結んで幕府の権威を利用しようとした。
この頃、畿内では織田信長が勢力を拡大していた。
織田家と毛利家は元就が生きていた頃から同盟関係が続いていたが、信長によって京を追放された将軍・義昭を輝元が庇護したことで両者の激突は避けられなくなった。
毛利が義昭を庇護した影響は大きく、上杉謙信は信長との同盟を破棄し、信長と敵対していた石山本願寺と講和。
毛利、上杉、本願寺の三者が同盟し、第三次信長包囲網が結成された。本願寺に弾薬や食料を支援する為に起こった第一次木津川口の戦いでは村上水軍を要する毛利水軍が織田水軍を圧倒し、補給に成功している。
天正5年(1577年)信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に中国攻略を命じ、織田家の中国地方への侵攻が始まる。秀吉は播磨国から但馬国に攻め入り、上月城を始めとする複数の城を攻略。
その後、毛利家が頼みにしていた備前の宇喜多直家が、秀吉の調略によって信長方へと寝返る。これに呼応して周囲の有力武将も織田方につくようになっていった。
また、尼子の残党や周囲の反対勢力も各地で毛利とぶつかり始め、輝元は毛利に味方する諸将に対して援軍を出す余裕がなくなっていく。
配下の村上水軍も秀吉の水軍に敗北し物資等が届かなくなり、次第に毛利軍は追い詰められていく形となる。
天正10年(1582年)5月、毛利方の清水宗治が守る備中高松城が秀吉によって水攻めにされる。
毛利の忠臣・清水宗治を助けようと、輝元は吉川元春や小早川隆景と共に約5万の軍勢で秀吉と対峙したが、物資の不足が理由で動けずにいた。
本能寺の変
そんな中、6月2日未明に、明智光秀による本能寺の変によって信長が自害。
光秀は本能寺の変のことを毛利に知らせようと密者を送ったが、備中高松城の警備をしていた秀吉軍に捕まり、秀吉がいち早くこの情報をつかんだ。
情報を得た秀吉はすぐさま毛利との和平交渉を開始し、秀吉の軍師・黒田官兵衛と毛利の軍師・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が交渉を開始する。
和睦の条件は秀吉がかなり譲歩した内容であったために、輝元はこの和睦を受け入れた。
この時に黒田官兵衛は、小早川隆景から毛利の旗を20本ほど借りている。
それはこの後に行う中国大返しで、軍の先頭に旗を持たせて毛利軍と見せかけて、妨害を防ぐためだった。
秀吉は石田三成らに中国大返しのための街道の整備や飯の供給、物資の海上輸送などを命じて京に向かう準備を進めた。
輝元が信長の死の情報を得たのは、秀吉が撤退を開始した次の日だとされている。
吉川元春は追撃するべしと進言したが、小早川隆景が「墨が乾かぬうちに約束を反故にするのはいかがなものか」と諌めて輝元も追撃を断念した。また隆景は父・元就の教えである「(毛利家は)天下を望むべきではない」という観点から、追撃に異を唱えたともされる。
その後、秀吉が山崎の戦いで明智光秀に勝利すると、輝元は秀吉に戦勝を祝うために安国寺恵瓊を派遣している。
しかしこの時点では、輝元はその後の秀吉に対する態度を決めてはいなかった。
秀吉の臣下
信長の後継者を決める清須会議の後、秀吉と柴田勝家の対立が深まり、輝元には双方から味方になれとの誘いが来たが静観していた。
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝家に勝利すると、秀吉は毛利に対して強硬な姿勢を見せてきた。領土の割譲を迫り、もし応じない場合は再度攻め込むぞと脅しをかけてきたのである。
輝元は秀吉と戦っても互角に渡り合えると考えていたが、交渉役の安国寺恵瓊は「十中、七、八は負ける」と考えており、輝元が秀吉とぶつからぬように必死に説得を続けたという。
輝元は決断を迫られて叔父・毛利秀包と吉川元春の三男・経言を人質として差し出した。
しかし、秀吉はこれを毛利の一時しのぎと見なし、更に輝元に脅しをかけていった。
当時の秀吉は、徳川家康や織田信雄と一触即発状態であり、秀吉vs徳川・織田連合軍の小牧・長久手の戦いでも毛利軍が背後から襲ってくるのを危惧し、宇喜多秀家らに警戒をさせていた。
その後、秀吉と徳川家康・織田信雄の和睦が成立し、秀吉の勢力は更に巨大化していくこととなる。
天正13年(1585年)とうとう輝元は秀吉との国境問題に応じることにした。
秀吉と講和して臣従し、その所領の多くの支配が認められて120万5,000石となり、家康に匹敵する大大名となった。
五大老就任
秀吉の下では紀州攻め・四国攻め・九州征伐に参陣する。
九州征伐では輝元を支えた叔父・吉川元春とその嫡男・吉川元長を病で失ってしまう。
天正17年(1589年)広島城の築城を開始。
天正18年(1590年)小田原征伐では、輝元は秀吉の代わりに京の警護を任される。
文禄元年(1592年)文禄の役では、3万の軍勢を率いて朝鮮に出兵。
文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥の関白・豊臣秀次が高野山で切腹させられるという「秀次事件」が起きる。
この事件は、輝元と秀次がかつて交わした誓約が発端とされている。
秀吉は秀次事件を克服するために、同年8月に徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家と輝元の5人を五大老に任じた(※当初は病没した小早川隆景も含めた6人だった)
そして輝元と秀次の誓約が発端となったために、諸大名間の縁組・誓約(同盟)を禁止させたという。
同年10月、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が生まれる、だが輝元はすでに従兄弟の秀元を養子に迎えていた為、その処遇が問題となる。
慶長2年(1597年)叔父・小早川隆景が亡くなり、2人の優秀な叔父を亡くしてしまう。
小早川家では、隆景の養子で秀吉の親族である秀秋に家督を継がせることを嫌がる家臣たちが、毛利家に帰参するというお家騒動が起きる。
毛利家では後継者・所領問題が持ち上がり、輝元は実子の秀就を後継者とするために、代償として養子の秀元に領地を分け与えなければならなくなってしまう。
秀吉はこうした毛利家の問題を解決しようとしていたが、問題を残したまま慶長3年(1598年)8月18日、病没してしまった。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が深まっていった。
毛利の所領問題では、三成が決定した案に家康が見直しを行い、輝元に迫ってきた。
結果として所領問題は解決したが、毛利家家中の問題にまで口を出す家康の権力増大を食い止めようと、輝元は決断する。
慶長5年(1600年)6月の会津征伐では輝元は広島に帰国し、その代わりに安岡寺恵瓊と吉川広家を向かわせた。
安国寺恵瓊はその途中で三成や大谷吉継と会い、家康に対する決起を決めて引き返してきた。
同年7月、ついに三成が挙兵。恵瓊は西軍の総大将を家康に次ぐ実力の輝元にするよう画策に動いた。
輝元は恵瓊に説得され、西軍の総大将を一門や重臣たちに相談もせず引き受けた。
7月19日、毛利軍は約6万の軍勢で大坂城に入城。
西軍の諸将から総大将に推挙された輝元は、関ヶ原の戦いの本戦には毛利秀元と吉川広家と安国寺恵瓊を向かわせて、自分は大坂城から出なかった。
毛利軍は南宮山に布陣したが、その中にいた吉川広家は西軍が負けると判断し、密かに家康と交渉をしていたと言われている。
その条件は「家康が輝元をおろそかにしないことと毛利の本領安堵」だった。
輝元・秀元・恵瓊はこの話を知らされておらず、広家とその重臣たちの独断だったとされている(※輝元の指示だったという説もある)
9月15日、本戦が始まると秀元と恵瓊の軍は先陣の吉川軍に道を塞がれてしまい、毛利軍は動けず一戦も交えることなくただ傍観。
関ヶ原の戦いでの西軍敗北の原因は、上のMAPで左下に位置する松尾山に陣取った「小早川秀秋の寝返り」ばかりがクローズアップされているが、家康の背後の南宮山に陣取った毛利軍が動かなかったことも同じくらい大きな原因と言えよう。
宰相殿の空弁当
大将である毛利秀元の陣には当然、恵瓊や長宗我部盛親、長束正家から「西軍に一刻も早く加勢すべし」と使者が送られてくる。しかし広家に妨害されて動けない秀元は苦し紛れに「これから兵士たちに弁当を食べさせなければならない」と言ったという。この出来事を指して「宰相殿の空弁当」という故事が生まれたとされる。
中央の家康本隊は3万。南宮山で動けなかった西軍は毛利、長宗我部、長束軍を合わせると家康本隊に匹敵する約3万の大軍勢だった。
小早川軍を始めとする松尾山で寝返った西軍は約1万5千。つまり西軍は約4万5千の大軍勢が裏切った形となる。
そんな西軍が勝てるはずもなく、関ヶ原では1日で敗北し大坂に撤退。
大坂城の輝元には、豊臣秀頼を立てて仕切り直して東軍との戦いを再開する道もあった。
しかし毛利全体の動きを見ると輝元は最初から戦には消極的で、いかに家康と良い条件で折り合うかが第一だったように見える。恵瓊も戦には積極的だったが勝利することでより毛利家に有利な交渉ができると考えていたのではないだろうか。
その後、家康は輝元に「所領を安堵するから大坂城から撤退せよ」と書状を送る。
輝元は書状を受け取ると、反対派の大名の言うことを聞かずにさっさと大坂城から撤退してしまう。
晩年
戦後、家康が示した輝元の処罰は「領地没収と周防・長門の2か国を吉川広家に与える」というものだった。
しかし吉川広家は、主君を差し置いて自分が出世するのはあまりに面目が立たないと考え、家康に毛利の家名存続の嘆願書を提出した。
その内容は「輝元は分別が無い人間で安国寺恵瓊に騙された」「毛利家の存続」「輝元が家康に再度逆らったら広家が自ら輝元を討つ」というものだった。
その嘆願書が利いたのか、家康は「毛利の所領は周防・長門2か国の29万8,000石として、輝元は隠居して秀就が継ぐ」とした。
輝元は剃髪して嫡男・秀就が家督を継ぎ、大減封はしたが毛利家は存続した。しかし、実際には輝元は当主として君臨していた。
萩城の築城を開始して領国では特産品の生産を奨励して石高を上げたのだ。
大坂冬の陣・夏の陣では病のために参陣は出来なかったが、徳川への恭順の意を見せた。
元和9年(1623年)秀就に家督を譲り、寛永2年(1625年)4月27日に萩で死去した。享年73歳であった。
おわりに
毛利輝元は、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将にもかかわらず戦わず、敗戦が決まると大坂城を撤退したため、無能な武将とも呼ばれた。
しかしそれはあくまで西軍側の視点であり、祖父の元就の「毛利家は天下を狙わない」という教えと、毛利家存続の視点で考えると大局で無理はせず判断を間違えなかった有能な武将だったと言える。
毛利家存続のために自分は出家したが、実質的な権力を握り、大幅に削減された石高でも多くの家臣たちを養った。
倹約と新田開発や特産品の開発に努め、10万石以上も石高を上げているのだ。
戦に関しては優秀な祖父や叔父に頼ってばかりいたが、領国経営においては才を見せた。
その結果、国力を持ち、後の世の長州藩では明治維新を成し遂げる大きな力となる。
この記事へのコメントはありません。