明石全登とは
明石全登(※あかし ぜんとう/たけのり/てるずみ~など読みは他説あり)は宇喜多秀家に仕え、家中がお家騒動で分裂して重臣たちが宇喜多家を離れる中、主君を見捨てずに忠義を尽くした武将である。
関ヶ原の戦いでは西軍についた宇喜多軍の陣頭指揮を執ったものの、小早川秀秋の裏切りによって敗戦となり潜伏生活を強いられる。
大坂の陣に参陣して「大坂五人衆」の一人として活躍するが、その最期は討死したとも逃走したとも言われている。
謎に包まれたキリシタン武将・明石全登について迫る。
生い立ち
明石全登 は諱が複数あり定かではなく、明石全登の名が一番有名であるため、ここでは全登で統一させていただく。
生年は不明で備前保木城主・明石行雄(景親)の子として生まれる。
父・行雄(ゆきかつ)は浦上宗景の家臣だったが、浦上氏滅亡の際に宇喜多直家に呼応して寝返り、以後は宇喜多家の客分となる。
全登は父・行雄が存命中または死後に家督を継ぎ、大俣城主となり宇喜多家の家老の一人となる。
全登は宇喜多直家とその嫡男、秀家に仕えるが領国経営にはほとんど関知しておらず、主に戦場での指揮を任されたという。
この頃、秀家の従兄弟・宇喜多詮家に誘われてキリシタンになっている。
洗礼名は「ジョバンニ・ジュスト」とされているが、こちらも諸説がある。
宇喜多騒動
宇喜多秀家 が10歳で家督を継ぐと、その後は豊臣秀吉に可愛がられて豊臣一門衆の一人として若くして(何と27歳で)五大老にもなっている。
しかし五大老は徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝と歴戦の猛者たちであり、27歳の若造の意見など通るはずもない。
幼い時から華美なものを好んだ秀家は、猿楽(能)や鷹狩りなどに湯水のようにお金を使ってそのストレスを発散していた。
また、領国の岡山城の築城や2度の朝鮮出兵などで、宇喜多家の財政は火の車となっていく。
秀家は、幼い時から仕えてくれた重臣たちの意見を聞かずに贅沢三昧を重ねて、自分の言うことを聞く長船貞親と中村次郎兵衛を重用したために不満が爆発し、長船貞親が暗殺されてしまう。そして重臣たちは次に中村次郎兵衛を成敗しようと画策する。
それを知った秀家は重臣たちを逆に成敗するために兵を差し向けた。
重臣たちは秀家と反目していた宇喜多詮家の邸宅に立て籠もり、両者は一色触発状態となった。
それを見かねた徳川家康と大谷吉継が間に入ったおかげで争いは回避となったが、先代から仕えていた優秀な家老たちは宇喜多家に戻ることが出来なくなった。
家老たちは家康や諸国の大名のもとに行き、秀家には全登しか頼る家老はいなくなってしまうのだ。
軍事的な指揮をやったことがある家臣は全登だけになったが、全登は政治的なこと(領国経営や外交)は経験がほとんどなかった。
全登は3万3,000石の知行であったが、秀吉の直臣ともなり合わせて10万石取りとなり出世した。
しかしこの宇喜多騒動によって宇喜多家は衰退していくこととなる。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)徳川家康と対立していた石田三成らが挙兵すると、宇喜多秀家も西軍として挙兵する。
全登は秀家に従い、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城攻めに加わり、杭瀬川の戦いでは三成の家臣・島左近と共に中村一栄らを破るなど東軍相手に大打撃を与えた。
9月15日の関ヶ原の戦いの本戦では、宇喜多軍1万7,000のうち全登は8,000名を率いて宇喜多軍の先鋒を務め、福島正則軍を相手に鉄砲戦術で善戦する。
しかし、小早川秀秋の裏切りによって、西軍は総崩れとなり敗戦となってしまう。
小早川秀秋の寝返りを許せなかった秀家は「金吾(小早川秀秋)を斬る」と小早川の陣に飛び込もうとしたが、全登が諌めて大坂城に撤退しようと進言する。
全登は殿(しんがり)を務めて秀家を逃がし自分も敗走したが、途中で黒田長政軍と遭遇したとされている。
これは確実な資料が無いのだが、どうやら全登と黒田家は姻戚関係にあったとされていて、黒田長政は全登の逃亡を助けたのではないかという説がある。
必死の逃亡の末に居城・岡山城までたどり着いたが、城はすでに荒らされており、秀家の消息は不明で連絡もつかずに全登はそのまま逃亡した。
宇喜多家は改易となり秀家は薩摩の島津に匿われていたが、やがて捕まり八丈島に流された。
浪人となった全登は、同じキリシタン大名で母親が明石一族の黒田如水(黒田官兵衛)に庇護されたという。
中でも如水の弟・黒田直之が熱心なキリシタンであったので、その屋敷に匿われたとされる。
黒田如水が死去した後は、親戚の柳川藩の田中忠政を頼ったというが、この頃の全登の行く先には諸説ある。
大坂の陣
慶長19年(1614年)家康と豊臣秀頼・淀殿の対立は深まり、豊臣家は旧恩ある大名や浪人を大坂城に集めた。
全登は全国に散らばった明石一族と、迫害を受けていた同じキリシタン数千名を連れて大坂城に入った。
全登は後藤又兵衛・長宗我部盛親・真田信繁(幸村)・毛利勝永らと「大坂五人衆」となり豊臣方の浪人衆の中心となる。
大坂冬の陣ではあまり目立った活躍は無かったが、翌年の夏の陣では道明寺の戦いで水野勝成・伊達政宗・神保相茂の軍と交戦した。
この戦いで全登は伊達軍と神保軍の同士討ちを引き起こしているが、自分も負傷している。
天王寺・岡山の戦いでは、全登は300名の決死隊を率いて家康の本陣を狙い突撃。
あの有名な、真田幸村の家康本陣への突撃作戦の別働隊である。
しかし、当初予定していた豊臣秀頼の出馬停止や、先に出た真田決死隊が壊滅したことを知って、水野勝成・松平忠直・藤堂高虎・本多忠政らの包囲網を突破して戦場から消えた。
消息不明
この後の全登の消息は、現在もなお不明である。
徳川実紀などの徳川方の家伝では、この戦いで討ち取られたとされていて、別の家記などでは水野勝成の家臣・汀三右衛門または石川忠総に首をとられたとも書かれている。
また、他には嫡子と共に九州に落ち延びた説や、南蛮に逃亡したと記されているものもあり、現在でもその消息は謎とされている。
江戸幕府は大坂夏の陣の後に「明石狩り」まで行っているが、消息は分からなかったという。
名前「全登」の読み方でも「ぜんとう・たけのり・てるずみ・なりとよ・いえのり」と多数伝わっている。
また、諱も「守重(もりしげ)」とも「景盛(かげもり)」とも伝わっており、通称は「掃部(かもん)」で明石掃部とも言われるなど、謎の部分が多いのだ。
生きて大阪の陣から脱出し、伊達政宗や津軽信枚に匿われた説や、秋田県比内町に全登の子孫と伝わる一族があるなど、他にも日本各地に全登の末裔を自称する家系があるという、まったく不思議な男である。
おわりに
明石全登は関ヶ原の戦いで宇喜多秀家の軍勢を率いて、猛将・福島正則を苦しめたことで歴史にその名を知らしめた。
宇喜多家の家臣でありながら豊臣秀吉の直臣となり、合計10万石を与えられたのだから相当の切れ者だったのだろう。
大坂の陣では数多くのキリシタン兵を全国から集めたというのだから、家康が恐れるほどの影響力があった武将だったことが良く分かる。
大坂の陣から21年後、徳川幕府は伊達家に匿われていた全登の息子、内記の捕縛を命じたという説もある。
謎多きキリシタン武将は、徳川幕府から恐れられ、長きに渡って「明石狩り」をさせたほど恐れられた猛将であった。
真田丸のせいで「オフロスキー」だとしか思わない。