実際の歴史をモチーフにした創作だと、しばしば登場人物の設定が史実と異なることがあります。
創作だから許されるとも言えますが、諸葛孔明のように評価が底上げされているならともかく、不当に下げられてしまっては、本人としてはたまらないでしょう。
そこで今回は、中国の歴史小説『三国志演義』に描かれた鮑信(ほう しん。元嘉二152年~初平三192年)の生涯を、史実(『三国志』『後漢書』など)と照らし合わせていきたいと思います。
『三国志演義』に描かれた、嫉妬深い鮑信の抜け駆け人生
まずは『三国志演義』の記述から。
鮑信は字を允誠(いんせい)と言い、後漢王朝(建武元25年~延康元220年)の元嘉二152年、鮑丹(ほう たん)の子として兗州泰山郡東平陽県(現:山東省泰安市)に生まれました。
祖先は前漢王朝に仕えた司隷校尉・鮑宣(ほう せん。字は子都)で、代々インテリの名門でしたが、それを鼻にかけるばかりで努力もせず、嫉妬深い性格だったそうです。
そんな鮑信は、初平元190年に朝廷を牛耳っていた董卓(とう たく)を討伐するべく諸侯連合軍に参加します。
しかし先鋒を任された孫堅(そん けん)を妬んで、手柄を横取りするべく弟の鮑忠(ほう ちゅう)と共に抜け駆けするも、董卓の部将・華雄(か ゆう)に惨敗。鮑忠は討ち取られ、自身は這々(ほうほう)の体で逃げ帰りました。
これでやる気をなくしたのか、その後は他の諸侯たちと陣中に引きこもって酒宴に明け暮れ、若き英雄・曹操(そう そう)から「お前ら何をしに来たんだ、いい加減にしろ!」と叱り飛ばされてしまいます。
それで戦いを再開するならまだ可愛いもので、不貞腐れた鮑信は微動だにしません。
「え~?でもでもだって、盟主の袁紹(えん しょう)殿を差し置いて戦うなんて、空気とか読まないとでしょ?……って言うか曹操君もダメだよ?勝手にみんなを仕切ろうとしちゃ……ねっ?」
オメー、先(せん)だって孫堅を出し抜こうとしてたヤツが何言ってやがる……そんな曹操のツッコミなど馬耳東風、そのまま酒宴に明け暮れている内に兵糧が尽きたため、反董卓連合軍はあっけなく解散。
鮑信も自分の領地に引き揚げて行きましたが、董卓は「それ見たことか、所詮アイツら烏合の衆だ!」と高笑いした事でしょう。
その後、袁紹と疎遠になったため、最近勢力を伸ばして来た曹操に取り入りますが、初平三192年に黄巾賊(中平元184年に蜂起した宗教集団)の残党が攻めて来ると、又しても盟友・曹操を出し抜こうと勝手な行動をとって敵に包囲され、討死してしまったのでした。
全く別人!?史実に描かれた鮑信は……?
……とまぁ散々な描かれぶりですが、それでは史実の鮑信はどうだったのでしょうか、
生没年や場所、父親や祖先などは同じですが、字は不明(允誠は小説オリジナル設定)。また、弟の名前は鮑忠ではなく鮑韜(ほう とう)となっています。
ストイックに儒学を修める一方、寛大で節義を重んじる、いわば「人に優しく、自分に厳しい」性格だったようで、この時点で小説の鮑信とは大きく違う人生を歩んだであろうことが予想されます。
中平元184年、黄巾賊の蜂起に際しては私財をなげうって(元から質素な暮らしを好み、得た財物はよく人に施していたそうです)義勇兵を募り、その志に意気投合した同郷の豪傑・于禁(う きん)らと共に、近郷の賊徒鎮圧に戦います。
その武功が認められてか、大将軍・何進(かしん)の招聘によって騎都尉に任官。羽林(うりん。皇帝の親衛隊)を率いて朝廷の警護を務めました。
中平六189年、皇帝をたぶらかして朝政を牛耳っていた十常侍(じゅうじょうじ。宦官のボスたち)の粛清を決断した何進に兵を集めて来るよう命じられ、同郷の大将軍府掾・王匡(おう きょう)と共に一度帰郷します。
しかし、その道中で何進が十常侍によって暗殺。急報を受けた鮑信は、王匡や于禁に相談しました。
「兵を集めるよう命じた何進殿が討たれた今、我々は仇を討つべきか?あるいは機を窺うべきか?」
于禁が「仇を討つかはともかく、兵を集めて都に戻れば、善後策の選択肢が広がります」と進言する一方、王匡は離脱を宣言。
「何進の野郎は前から気に入らなかったが、その権勢に従っていただけだ。殺されたのなら都に戻る理由はねぇ。仇討ちなんてまっぴらごめん、俺は抜けるぜ」
仕方なく自分たちだけで兵を集めて都に戻ると、仇である十常侍も袁紹が招集した董卓によって滅ぼされていました。
これで一件落着かと思いきや、功績を鼻にかけた董卓の横暴な態度が目立つようになります。このままではきっと国に仇をなすことを予見した鮑信は、まだ都での基盤を固めていない内に急襲・暗殺することを袁紹に進言します。
「あの乱暴者の董卓が、十常侍を除いた功績に乗じて権力を手に入れてしまったら、もはや制御が難しくなります……どうか、ご決断を!」
古今東西、こういう危難を予防する進言が聞き容れられた例しは少ないもので、結局もたもたしている内に董卓が幼帝を担いで政権を掌握。袁紹たちは這々の体で都を脱出、それぞれの本拠地へ逃げ帰るのでした。
もっと早く手を打っていれば……と後悔しても始まらないため、鮑信は本拠地である斉北国(現:山東省北西部と河北省南東部)に戻って歩兵二万、騎兵七百、輜重(しちょう。荷駄隊)五千余を集めて反董卓連合軍に参加。曹操から行破虜将軍に推挙されます。
……ここで小説だと「抜け駆けを図って失敗して不貞腐れ、以後は戦わず酒宴に明け暮れていた」とされていますが、実際の鮑信は曹操と共に戦います。しかし、武運拙く董卓の部将・徐栄(じょ えい)に大敗して弟の鮑韜は討死、自身も重傷を負ってしまいました。
しばらく寝込んでいる内に兵糧が尽きてしまい、気づけば連合軍が解散していたところは小説と同じですが、余計な抜け駆けを図っていない点、曹操の叱咤に応じてきちんと戦った点については、一定の評価が必要でしょう。
その後、袁紹が冀州(きしゅう。現:山西・遼寧・河北省一帯)を領有して勢力を伸ばすと、袁紹が「第二の董卓」となるリスクを懸念し、曹操に「東郡(現:河南省一帯)を抑えて勢力基盤を確保すべし」と進言。
これを受けた曹操は進言通りに東郡を抑え、その太守に就任。曹操の信頼関係を強化し、鮑信は再び斉北国の相(しょう。諸侯国の宰相だが、実質は太守とほぼ同じ)に推挙されました。
※既に就いている官職を再び推挙することに何の意味があるのか?とも思いますが、恐らく「この人はよく現職を務めている!」という一種の太鼓判だったのかも知れません。言うだけなら基本タダですし。
そんな中、青州で黄巾賊の残党が蜂起、怒涛の如く兗州(えんしゅう。現:山東・河南省一帯)に攻め込みました。鮑信は援軍として兗州牧(長官)・劉岱(りゅう たい)の元へ馳せ参じ、善後策を協議します。
「有象無象とは申せ、賊は百万にも及ぶ大軍。軽々に撃って出ず、籠城して援軍を求めれば、満足な兵器もない賊どもは、攻め切れずに疲れて統率を乱すでしょう。そこを蹴散らせば、たやすく勝つことが出来ましょう」
しかし、農民ばかりの黄巾賊を前にした劉岱はこれを侮り、鮑信らの制止を振り切って出撃。精鋭を率いて勇ましく戦ったものの、やがて圧倒的な兵数差に押し包まれてあえなく討死してしまいました。
さて、主を失った兗州に「この難局を乗り切れるリーダーは、曹操殿を措いてない」と持ちかけたのは曹操の軍師・陳宮(ちん きゅう)。普通なら「我田引水にも程がある」となるでしょうが、そんな事を言っている場合ではありません。
鮑信らもこれに賛同、さっそく曹操を兗州牧に迎え入れ、賊徒鎮圧のため曹操に協力。その甲斐あって青州の黄巾賊たちは次第に劣勢となり、初平三192年には攻守逆転。鮑信は曹操らと共に青州へ攻め込んだのでした。
「まずは敵情を偵察せねば……」
曹操が鮑信らを従え、少人数で物見に出たところ、賊徒の奇襲を受けてしまいます。
「すわっ、敵襲!」
窮地を脱するべく奮闘する曹操でしたが、やがて鮑信らに遅れ、気づけば完全包囲されてしまいました。
「……最早これまでか!」
諦めかけたその時、一度は窮地を脱した鮑信や于禁たちが、賊徒の囲みを破って馳せ戻ってきたのです。
「間に合った……曹操殿、ご無事か!」
「今、お助け致しますぞ!」
于禁が血路を斬り拓き、曹操が続いて殿(しんがり)を鮑信が支えながら山林を目指して駆け通します。しかし、途中で力尽きた鮑信は賊徒に呑み込まれてしまいました。
「于禁!……曹操殿を、頼んだぞ……っ!」
「鮑信!」
「曹操殿、鮑信の死を無駄になさいますな!」
于禁は振り返ろうとする曹操を引き戻し、抱きかかえるように救出。やがて本隊と合流して事なきを得たのでした。
「……そなたの死、決して無駄にはせぬ……!」
鮑信の死を悼んだ曹操は、青州の平定後に遺体を探させましたが見つけることが出来ず、せめてその嫡男・鮑卲(ほう しょう)を騎都尉に取り立てて厚遇。于禁も鮑信の遺志を継いで曹操に仕え、その後三十年以上にわたって活躍するのでした。
ちなみに、鮑信は生前から将兵によく施したため、邸宅を整理したところ何の遺産もなく、本当に無欲で、ただ天下公益のために尽くした人格が偲ばれます。
終わりに・マイナー武将の魅力を発見する楽しみ
以上、鮑信の生涯について小説『三国志演義』と史実で比較してきましたが、どうしてこんなに差がついてしまったのでしょうか。
一つには、小説の作者がそこまで深く考えず、ずらっとならんだ群雄たちを「主人公(曹操や劉備たち)の引き立て役」くらいにしか認識していなかったであろうことが考えられます。
何しろ千数百人の人物が入れ代わり立ち代わりに登場する長編作品ですから、一人ひとりのプロフィールについて、そこまで調べていられなかったのでしょう。
「何だよ、設定が雑だな……」とも言えますが、逆に考えれば「マイナー武将を詳しく調べてみると、意外な一面を発見出来るかも!」という楽しみにもつながります。
小説『三国志演義』ではショボい設定に描かれているマイナー武将が、史実では大活躍していたのかも知れない……そう考えると、三国志が2倍にも3倍にも楽しめる事でしょう。
※参考文献:
立間祥介 訳『三国志演義(上)中国古典文学大系 (26)』平凡社、1968年
藤田至善 解説『後漢書 (中国古典新書)』明徳出版社、1970年
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』ちくま学芸文庫、1994年
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