高田又兵衛とは
高田又兵衛(たかたまたべえ)とは「槍の宝蔵院」と謳われた宝蔵院流槍術を伝承して「宝蔵院流高田派槍術」を完成させた人物である。高田吉次が正式名称であるが、ここでは通称の又兵衛で記す。
又兵衛は、徳川将軍家に槍術を披露し「槍の又兵衛」の名声を全国に轟かせ、あの剣豪・宮本武蔵と試合をしてその実力を認められた。
今回は槍術の達人・高田又兵衛の生涯について追っていく。
出自と宝蔵院流槍術
高田又兵衛は、天正18年(1590年)伊賀国白樫村(現在の三重県伊賀市白樫)の武士・高田吉春の長男として生まれる。
幼い頃から武芸に優れた才能を示した又兵衛は、12歳で奈良の興福寺にある「槍の宝蔵院」と謳われた「宝蔵院流槍術」の中村尚政の門弟となって槍術を学び、尚政の推挙で宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄から直々に十文字槍術の指導を受けた。
宝蔵院胤栄は柳生石舟斎と共に、剣聖として名高い上泉信綱から「新陰流」剣術を学び、十文字の鎌槍を用いた「宝蔵院流槍術」を創始した剣豪である。
宝蔵院流槍術は開祖・胤栄から宝蔵院胤舜に継承され、次に又兵衛の師・中村尚政(宝蔵院流中村派)に継承され、それが又兵衛に継承された。
又兵衛は慶長8年(1603年)14歳の時に宝蔵院流槍術の印可を授かり、18歳の時に胤栄から秘蔵の武器・秘伝書・神宝などを譲渡されている。
それだけでは飽き足らなかった又兵衛は、巡国修業をしながら柳生松右衛門に「新陰流」を、穴沢如見に薙刀術を、五坪兵庫に直槍(素槍)を学び、それらを融合した「宝蔵院流高田派槍術」を完成させた。
武術指南
又兵衛は、慶長19年(1614年)大坂の陣に父・吉春と共に大阪方として参加した。翌年の夏の陣で父は亡くなるが、又兵衛は大坂城を脱出して生き残った。
その後、又兵衛は江戸に出て町道場を開き、大名や旗本たちにも槍術を教授して、門弟の数は全国で4,000人にもなったという。
元和9年(1623年)34歳の時に久世家の斡旋により播磨三木明石藩主・小笠原忠真(おがさわら ただざね)に400石馬廻役の格式で仕官し、武術指南となった。
その後、主君の移封によって豊前小倉藩に移り、寛永15年(1638年)に起きた島原の乱では、原城攻めに槍手一隊を率いて本丸を陥れるという武功を挙げている。
宮本武蔵との試合
宮本武蔵は、小笠原忠真の客分として迎えられていた。武蔵の養子・宮本伊織が小笠原家に仕えており、小倉藩に移封後は重臣となっていたからである。
そして藩主・忠真が、又兵衛と武蔵の両名を呼び寄せて試合をするように命じた。
一度は両名が断ったが、忠真があきらめず又兵衛は竹製の十文字槍。武蔵は木刀を手に立ち合うことになった。この頃の武蔵はまだ一刀であった。
中段に構える武蔵に向かって又兵衛の槍が鋭く突き出され、武蔵は二度目までかわしたが、三度目の突きがやや流れるようになって、武蔵の股間に入ってしまった。
武蔵が「さすが又兵衛殿、それがしの負けでござる」と言うと、又兵衛は「本日は御前ゆえそれがしに勝ちを譲ってくださったのであろう」と謙遜したという。
またこの試合にはもう一つの説があり、試合は一進一退でいずれが有利かと見る間に、突然又兵衛が槍を投げ出して「参った」と降参したと言う。
藩主・忠真に、又兵衛は「槍は長く、剣は短い、長いものに七分の利があるにもかかわらず三合しても勝てなかった。長い得物(えもの)を持って戦った私の負けでございます。」と説明したという説もある。
又兵衛と武蔵は明石藩時代からの知り合いであり、武蔵は又兵衛より6歳年上で、この頃二人は30歳を超えていた。
武蔵は30歳前には吉岡一門との戦いや、巌流島の決闘で知られていたが、30歳以後は他流との手合わせを控えている。
その頃の試合であったため、武蔵と又兵衛は共に本気ではなかったと思われる。
武蔵と又兵衛は互いの力を認め合う仲になり、互角に立ち合ったことから生涯の友になったという。
槍の又兵衛
慶安4年(1651年)三代将軍・徳川家光が病に倒れ、武芸好きな将軍・家光のために諸藩を代表する武芸の達人が江戸城に集められ、武芸を披露する「慶安御前試合」が開催されることになった。
又兵衛は長男・高田吉深と弟子・觀興寺正吉と共に、江戸城で「石槍の技・巴の槍」と称する「宝蔵院流高田派槍術」の妙技を披露した。
又兵衛の演武は「疾風雷の如く、声、殿中を震う」という凄いもので、家光公が又兵衛の槍術に感心して褒め称えたことで「槍の又兵衛」の名声が、全国津々浦々に轟いた。
その後
「宝蔵院流高田派槍術」は小倉藩の槍術の主流となっていく。
又兵衛は寛文11年(1671年)1月23日82歳で死去し、三男・高田吉通が相続して又兵衛を称した。
又兵衛の長男・高田吉深は久居藩の槍術指南となり、次男・高田吉和は福岡藩の槍術師範となった。
その後、又兵衛の高弟・森平政綱ら三名が江戸に出て槍術を広め、幕末の頃には多くの宝蔵院流の師範がいるほど栄え、現在も伝わっている。
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おわりに
高田又兵衛は12歳で宝蔵院流槍術の門に入り、たった2年で印可を受けるまで強くなったが、それに飽き足らず「新陰流」「穴沢流薙刀術」などを修業して創意工夫を重ね「宝蔵院流高田派槍術」を興した。
主君のわがままで宮本武蔵と試合をしたが、二人には親交があり、あえて勝敗をつけず生涯の友となった。
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