はじめに
農民の出でありながら日本最大の大出世を遂げて天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、武士の最高峰である「征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)」とならずに、公家の最高位である「関白(かんぱく)」を選んだ。
朝廷から政権を預かる武士は「征夷大将軍」に任じられるのが常で、鎌倉幕府の源頼朝から始まり、徳川幕府の徳川慶喜まで武家の棟梁として就任が続いている。
武士で関白になったのは秀吉と、その跡を継ぐはずだった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の2人だけである。
秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく、関白を選んだのだろうか?
天下取りのイメージ
織田信長に仕えた秀吉は「人たらし」の人間性と行動力で信長に重用され、大出世していった。
本能寺の変で討たれた主君・信長の仇を取るために「中国大返し」を決行し、いち早く明智光秀を倒して織田家の家臣団でトップとなり、一気に天下人へと駆け上がったというイメージがある。
しかし、実際には本能寺の変から天下統一までは8年の歳月をかけており、織田家の家臣団内での勢力争いや天下人と認めさせるための「ブランド戦略」などを緻密に進めていた。
秀吉は戦に明け暮れる中で、朝廷での官位を「筑前守~従五位下・左近衛権少将~従三位・権大納言~正二位・内大臣~従一位・関白」と一気に上げていった。
関白とは
そもそも関白とは、天皇が幼少または病弱時に大権を代行する摂政とは異なり、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。
関白は、天皇と協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる公家の最高位である。
地位としては征夷大将軍よりも上で、「関白」という名称も天皇の御言葉に対し「間(あずかり)白(もうす)」という意味があるのだ。
平安時代は摂政をやった者が関白になり、いわゆる「摂関政治」と言われた。
少なくても武士が任じられる官位ではなかった。
ただ、鎌倉時代から室町時代にかけて政権が武士に移ってからは関白の影響力は低下、戦国時代になると朝廷儀式に関白が出ることすらなくなっていったという。
関白になるまで
天正7年(1579年)、信長がそれまで就任していた右大臣兼右近衛大将の官職を辞任したことで朝廷は困惑した。
天下統一を間近に控えた信長に官位を与えないということは、朝廷の権威を損なうことになりかねない出来事だからである。
そこで朝廷は天正10年(1582年)5月、信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち、いずれか好きな官職を与えるとした。
しかし、その翌月に信長は「本能寺の変」で亡くなってしまう。
このことは「三職推任問題」と言われ、信長が朝廷の申し出をどう受けるつもりだったのかは、未だに謎とされている。
次の天下人へ名乗りを上げた秀吉は、一気に従三位・権大納言~正二位・内大臣まで上り詰めた。
この頃、大坂城を築城しライバルの徳川家康とも和解し、秀吉は現実的に天下人になっていた。
そこで朝廷は秀吉に対して信長と同じ「右大臣」の職に就くことを打診した。
すると秀吉は「信長様は右大臣を辞したまま明智光秀に討たれたので縁起が悪い。できたら左大臣に任じてほしい」と申し出たのだ。
しかし秀吉を左大臣に任じれば、当時左大臣の職にあった近衛信尹(このえのぶただ)を辞任させなければならないという新たな問題が生じた。(※詳しくは関白相論参照)
それを聞いた秀吉は、かつての「三職推任問題」を根拠に「征夷大将軍」を除いた「関白、太政大臣」になると朝廷に伝えた。
「征夷大将軍」を除外したことには「関白」の方が官位が上ということが大きかった。
農民出身の秀吉は「征夷大将軍」にはなることができなかったという説もある。(※源氏でないと将軍にはなれないという説、しかし実際には源氏以外の者も将軍になっている)
関白就任は征夷大将軍就任より難しく朝廷内の抵抗も強い、それを押し通すことで秀吉が絶対的権力を持っているという証明になった。
本来は一年後に近衛信尹が関白となる予定だったが、天正13年(1585年)秀吉は、近衛信尹の父・前久の猶子(ゆうし)となり将来的に信尹を後継として関白を譲る案を提示し、7月11日に関白宣下を受けて公家以外では初めて関白職に就任した。(※猶子とは他人の子と親子関係を結ぶ制度で、養子よりも広義で緩やかな親子制度)
聚楽第
関白に就任した秀吉は、京都御所の近くに豪華絢爛な城「聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)」の築城を開始した。
聚楽第は秀吉の政庁兼邸宅として天正14年(1586年)2月に着工し翌年の9月に完成。本丸を中心に西の丸・南二の丸及び北の丸の三つの曲輪を持ち、堀を廻らせた平城であった。
建物には金箔瓦が用いられ、白壁の矢倉や天守のような重層な建物があった。(※天守はなかったという説もある)
秀吉の権力を見せつけるには最も分かりやすい「ビジュアル戦略」となり、聚楽第を拠点に応仁の乱で荒れた京都の町を整備し、聚楽第の周囲に大名屋敷を作って朝廷や京都の人たちに自分の権力を誇示した。
天正16年(1588年)5月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招いて饗宴を開き、天皇の前で家康を始めとする有力大名たちに忠誠を誓わせている。
この時、秀吉は天皇の行列を秀吉の行列の前駆扱いにし、聚楽第で待たせることで天皇より秀吉の方が上だと知らしめたとされる。
その裏には、農民の出という身分のコンプレックスがあったのではないかと思われている。
聚楽第取り壊し
天正19年(1591年)秀吉の弟の秀長と後継者に指名していた側室・淀殿の子(鶴松)が相次いで病死してしまう。
そのため甥・秀次を養子にして後継者とし関白職を譲り、秀吉は「太閤(たいこう)」と呼ばれるようになる。
しかし、全権は秀次に譲らずに実権は秀吉が握り、二元政を敷いた。
文禄2年(1593年)8月3日、淀殿が拾(のちの豊臣秀頼)を産み、秀吉は新築したばかりの伏見城に母子を伴って移り住み、聚楽第に秀次を住まわせた。
側室の淀殿は信長の妹・お市の方の長女で、秀頼には織田家の血が流れていた。
その2年後、秀次は謀反を起こした罪に問われて切腹させられてしまう。
立派な武家の血を継ぐ後継者を得た以上、秀吉は農民の身分を思い出させる秀次や聚楽第に未練がなくなったのか、秀次の一族は斬首させられ、聚楽第も取り壊されてしまったのである。
おわりに
主君・信長でさえなれなかった「天下人」となった秀吉は、武家の棟梁である「征夷大将軍」よりも国内で一番の官位・身分である「関白」という日本最高の地位を望みそれを得た。
農民の出でありながら世紀の大出世を果たし、公家の藤原氏ゆかりの五摂家しかなれない「関白」になることで、武家と公家、両方の棟梁であることを全国に知らしめたのである。
そもそも足利義昭は将軍をやめたわけではない。
信長に京を追い出されただけである。
なので将軍はいることになる。
将軍がいるので関白として政権を握ろうとしたのだと思う。
単純に秀吉は源氏の嫡流でなかったから、仕方なく関白職も猶子になるという裏技を使ったが、これを倒す武家が無かっただけだ。
家康も乞食坊主の出なので本来征夷大将軍にはなれないところだが、源氏の家系図を捏造してまで将軍になった。のちに大きな戦が無くなった事は偉大な政治家といえる。
このように源氏の血が流れていない天下人は大変苦労している。武田信玄や今川義元なら立派な源氏だからもっと簡単だっただろうけど。