安土桃山時代

真田幸村の生涯 「日本一の兵」と呼ばれた男の前半生~

真田幸村(信繁)とは

真田幸村

真田信繁/真田幸村肖像画

真田幸村(信繁)は人気が高く、とても有名な武将である。

第2次上田合戦では父・真田昌幸と共に、上田城で徳川秀忠率いる3万8,000の軍勢を相手にわずか3,000の兵で立ち向かい、徳川秀忠軍を関ヶ原の戦いに遅参させた。

大坂冬の陣においては「大坂五人衆」の一人として「真田丸」を築いて徳川勢に大打撃を与え、大坂夏の陣では徳川家康にあと一歩のところまで迫り家康に2度も自害を覚悟させた。

勇猛な活躍により「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と賞され、宿敵徳川家康に果敢に挑んだ英雄として庶民に高い人気を誇った男・真田幸村について3回にわたって解説する。

今回は幸村の誕生から、父、兄との別れとなる犬伏の別れまでを紹介する。

幸村の由来

真田幸村(さなだゆきむら)の名が知れ渡っているが、諱は「信繁(のぶしげ)」である。
直筆の書状や生前の史料等で「幸村」の名が使われているものは存在していない。

死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認でき、「幸村」と署名された古文書は2通現存しているが、いずれも偽文書であった。
「幸村」の名が見られるようになったのは寛文12年(1672年)の軍記物「難波戦記」で、その中で真田昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場する。

「幸村」とされた定説は「幸」は真田家の通字(とおりじ・先祖代々名前に入れられた特定の漢字)、「村」は諸説あり姉・村松殿にちなむ説と徳川家に仇なすと恐れられた妖刀「村正」が由来する説がある。現在では村正説は後に創られた俗説であるとされている。

諱の「信繁」は父・真田昌幸の主君・武田信玄の弟で人望が厚く兄を支えた「武田信繁」を父・昌幸が尊敬してその名を付けたと言われている。

時代と共に「幸村」の名があまりにも定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集「寛政重修諸家譜」や兄・真田信之の松代藩の正式な系図までが「幸村」を採用した。

ここでは知れ渡っている「幸村」と記させていただき、幸村の生年は通説である永禄10年(1567年)で記させていただく。

出自と真田家

真田幸村

真田昌幸

真田幸村は武田信玄の家臣・真田昌幸の次男として甲斐国甲府で生まれる。

実は幸村の前半生は不明なことが多く、生年は永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)とされている。
幸村が生まれた頃、父・昌幸は武藤喜兵衛と名乗っており、幸村の通称は源次郎、兄の信之の通称が源三郎であったことから、幸村は信之の兄とされる説もある。

真田家も謎に包まれた一族で、真田氏は信濃国小県郡の国衆で幸村の祖父・真田幸隆の頃に武田信玄に帰属している。
武田信玄に仕えるまでの史料がほとんどなく、祖父・幸隆の時代に突如として真田氏が出現している。

一説には真田家が拠点にしていた真田郷に住む別性の一族で信濃の海野家、あるには実田という姓の者が真田に転じたという説もある。
海野家は、一度真田郷を武田家によって追われていたので、領地を取り戻すために武田家に仕えるようになったという説も有力である。

幸村の父・昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し、武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が戦死したため真田家を継いだ。

祖父・幸隆は岩櫃城の城代として上杉を監視する立場にあったが、父・昌幸が城代を引き継いでいる。

真田家は武勇に優れ、信玄に重用されて「武田二十四将」に一族から複数人が入っている。

武田家滅亡

尾張の織田信長が台頭してきたことで武田と他の諸大名で信長包囲網が形成されていった。
しかし、元亀4年(1573年)4月12日、西上作戦で徳川家康の本拠地である三河を攻めていた時に信玄が出陣中に病死する。

武田家の家督は武田勝頼が継いだが、天正3年(1575年)長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。
武田家は次第に勢力が衰え、天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐「天目山の戦い」で勝頼が自害し、武田家は滅亡してしまう。

こんな逸話がある。

この戦いの帰り道、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇した。見つかればすぐに殺されてしまう。
すると当時15歳だった幸村が「父上、私に策がある」と父・昌幸に進言した。
それは無地の旗に北条の武将の紋(永楽通宝)を描くことであった。(北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝だった

しかし、味方のふりをして逃れても怪しまれては最期、真田軍は50人ずつに分かれて6方向から夜襲をかけて人数が多いように見せた。
北条軍は旗を見て仲間の武将が裏切ったと勘違いして大混乱、その隙をついて敵陣を突破した。
その時、旗は6本で銭が描かれたことから幸村の旗印は永楽通宝の「六文銭」になったという。

画像:真田六文銭の旗 photoAC

幸村の祖父・幸隆の時に真田家の家紋は「六文銭」あるいは「六連銭」であった。
六文銭の「六」は仏教の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世界を意味している。

六文銭は成仏できるようにと入れられる渡し賃を表した意匠、三途の川を渡る時に必要とされ、いつでも死の覚悟が出来ているという意味がある。

真田家は通常は無紋の六文銭を使ったが、幸村は永楽通宝の文字が入った家紋を神社に奉納している。

人質生活

父・昌幸は武田家滅亡後、織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡・信濃国小県郡の所領を安堵され、幸村は信長の重臣・滝川一益のもとに人質として赴いた。

しかし、武田家が滅亡してわずか3か月後の天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長は横死した。
すると北条がすかさず北関東に侵攻、上杉や徳川も旧武田領に侵攻し熾烈な争奪戦を繰り広げた。(天正壬午の乱

支配を始めたばかりの滝川一益は北条氏直に敗れ、幸村ら人質を連れて伊勢に向けてわずかな兵と共に落ち延び、幸村は木曽義昌に預けられ徳川家康に引き渡された。

昌幸は矢沢頼綱(幸村の叔父)を送り込んで沼田城を奪還し、嫡男・信之を岩櫃城に送って上野方面の守備を固め、真田家は独自勢力を目指して旧武田領の取り込みを模索した。

上杉軍が北信濃に侵攻すると昌幸は上杉に臣従、だがすぐに北条に臣従、その後には徳川に臣従している。

昌幸は真田家の生き残りのために臣従先を上杉・北条・徳川とその時々の状況に合わせて変えている。
そのため、幸村・母・姉・祖母らは人質となっていた。

第1次上田合戦

天正10年(1582年)10月下旬、徳川と北条の和睦が成立。しかし、家康は和睦の条件に真田の領地の沼田領を北条に譲渡するとした。

これに昌幸は「沼田は真田が戦で勝ち取った土地、家康から貰った土地ではない。しかもそれに代わる代替地もない」と大激怒し沼田の引き渡しを拒否した。

真田幸村

尼ヶ淵から上田城を望む(2014年2月撮影)wiki c Qurren (talk)

この時、上杉への最前線として家康の命で上田城の築城(改修という説もある)を始める。一説にはこの費用は家康が負担したとされている。

家康からすると上田城の金を出しているのだから沼田を北条に渡せとなるが、沼田は関東・信州・越後における交通の要衝で武田家時代からの領土である。昌幸からすると「それはそれ、これはこれ」と沼田については譲らなかったのだ。

この時、家康は真田の人質をとっていなかった。だから昌幸は強気に出たのかもしれない。

家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、家康との関係を強化した北条氏直は沼田の明け渡しを昌幸に迫るも、昌幸はそれを無視した。

家康も「あんな小国(真田)に自由にされて」と笑い者にされてしまうことは許せず、メンツのためか真田征伐を決定。昌幸は家康に対抗するために上杉景勝に臣従した。

天正13年(1585年)7月に幸村と共に従兄弟・矢沢頼幸を人質に出し軍兵も一緒に送った。
幸村は上杉景勝から家臣と同じような待遇(客将)を受けて、土地(千貫)までもらい受けている。

家康は北条との約束を守るために沼田領の引き渡しを求め鳥居元忠大久保忠世・平岩親吉ら7,000の兵を上田に派遣。これに対する真田軍はわずか1,200の兵であった。(第1次上田合戦

まだ、完成していない上田城に昌幸ら700、砥石城に信之ら300、矢沢城に矢沢頼綱200の兵と上杉の援軍が布陣した。

幸村は人質先の上杉家から一時的に戻るが、この戦いには加わっていないとされている。(一説には祢津城の守りに配置されたという説もある。

真田軍は上田城から200の兵を囮(おとり)部隊として城の手前の神川に配置。城下町のあちこちに柵を交互に配置する。
同年8月2日、徳川軍が正面の囮部隊に攻撃を開始すると200の囮部隊はすぐに城に逃げ込み、徳川軍を城下町に引き入れた。

そして事前に民を避難させていた城下町に火を放った。この日は風が強く徳川軍は炎に包囲されてしまう。しかも大軍ゆえに柵で身動きが取れなかった。
そこを鉄砲隊が撃ち、大混乱に陥った徳川軍に今度は隠れていた農民兵が襲いかかった。

徳川軍が炎から逃れるように神川へ逃げ込むと今度は神川の上流で堰を切った。川が増水して徳川軍の兵と馬は流され、そこへ支城などからの真田軍が総攻撃をかけた。

徳川軍の死者は1,300人を超えて浜松に撤退。対する真田軍の損害は40名ほどであったという。数の上では圧倒的な不利な真田軍の大勝利であった。

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉でさえ勝てなかった徳川軍を破ったことで「真田恐るべし」と昌幸の名は天下に知れ渡り、一目置かれる存在となった。

沼田城にも北条軍が数回に渡って攻撃するも、城代・矢沢頼綱らがいずれも撃退している。

豊臣秀吉に仕える

真田幸村

豊臣秀吉

第1次上田合戦に勝利した昌幸は、家康との次なる戦いを見据えて上杉を通じて今度は豊臣秀吉に臣従した。
それに伴い幸村は越後の上杉から大坂の秀吉へ人質として出仕し、秀吉に仕えることになった。

天正14年(1588年)、家康は秀吉に屈服。秀吉は沼田領のうち3分の2を北条に、残りを真田にして不足分を家康が代替地を用意するように命じた。
昌幸に対しては家康の配下(与力大名)となるように命じる。

家康は幸村の兄・信之の才能を高く評価していたので、重臣・本多忠勝(徳川一の猛将・徳川四天王の一人)の娘・小松姫を家康の養女として信之に嫁がせた。
天正17年(1589年)、幸村は秀吉の重臣・大谷吉継の娘・竹林院を正室に迎えている。

その後、北条の家臣が秀吉の裁定で真田の領地となった名胡桃城を強奪してしまうという事件が起こった。(名胡桃城強奪事件

約束を反故にされた秀吉はこれに怒り小田原征伐を決め、天正18年(1590年)幸村は大谷吉継と共に石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦した。
秀吉は総勢20万の大軍勢で小田原城を攻めて北条家は滅亡。沼田領は真田に返還された。

文禄の役では幸村は肥前・名護屋城に父・兄と共に参陣。文禄3年(1594年)11月には従五位下左衛門佐に叙任されて豊臣姓を賜っている。

幸村は秀吉の馬廻衆となり1万9,000石の知行を有し、大坂と伏見に屋敷を与えられ独立した大名として遇されていた。

犬伏の別れ

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が亡くなると家康は他の五大老(前田利家宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元)や石田三成らとの対立を深める。
前田利家が亡くなると前田利長を服従させ、次に会津の上杉景勝に狙いを定めた。

慶長5年(1600年)6月、家康は会津征伐に出発。昌幸・信之・幸村親子も家康に従い会津に向かうが、7月に三成ら(西軍)が挙兵する。
昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で三成から挙兵の書状を受け取る。

昌幸・信之・幸村親子は真田の去就を決める会議を行った。兄・信之は本多忠勝の娘(家康の養女)を妻としているために家康(東軍)についた。
昌幸は自分の妻が三成の正室と姉妹(これには不明な点もある)であり、大坂で三成の人質となっていた(実際には脱出している)。また幸村は義父・吉継が西軍であり、三成の親友であることから昌幸・幸村親子は西軍につくことになり上田城へと戻った。

この真田家の決断は「犬伏の別れ」とも呼ばれ、敵と味方に分かれどちらが勝っても真田家が存続できる選択をした。

真田信之

家康は小山で徳川(東軍)に味方すると決断した信之を賞して、離反した昌幸の所領を信之に約束した。

昌幸・幸村親子は上田城に戻る前に沼田城で孫(信之の子)の顔を見てから上田に戻ろうとしたが、信之の正室・小松姫に沼田城への入城を拒否されてしまう。
だが、城外であれば問題ないということで、城下の寺で孫と会ったという。

西に向かう家康は、関東不在中に上杉や真田に江戸を奪われぬように徳川軍を二つに分けて進軍した。
家康率いる軍は東海道から進軍し、嫡男・徳川秀忠の軍3万8,000は真田の牽制を兼ねて中山道を進んだ。

昌幸・幸村親子は7月23日に上田城に戻り、三成と連絡を取り合った。

昌幸の戦略は、3万8,000の秀忠軍を3,000人程度の少ない真田軍で足止めをして、西軍との本戦(関ヶ原の戦い)に遅参させることだった。

そして昌幸・幸村親子は上田城で秀忠軍を迎え撃つことになる。

真田幸村と真田丸 「日本一の兵」と呼ばれた男の後半生~

 

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