三英傑とは
戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは、天下人へあと一歩のところまで迫った「織田信長」、最初の天下人となった「豊臣秀吉」、秀吉没後に天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開いたもう1人の天下人「徳川家康」の3人である。
三英傑の三人は共に尾張・三河(現在の愛知県)出身という共通点があるが、それぞれタイプは違い様々なエピソードがある。
今回は天下を統一した豊臣秀吉の逸話について紹介する。
豊臣秀吉の逸話
秀吉の逸話は事欠かないほど多い。その中から幾つか紹介する。
秀吉が天下人になれた要因の一つとされているのが「人の心を掴む才能」だとされている。
いわゆる「人たらし」であり持って生まれた性格もあるが、低い身分からの「叩き上げ」で出世した秀吉には自前の家臣団がなかったために、多くの優秀な人材(竹中半兵衛・黒田官兵衛・石田三成ら)を登用する必要性があったことは確かである。
信長に小便をかけられる
若い頃、信長は秀吉の本質を見極めようと、清州城の門の二階から秀吉に小便を引っ掛けた。
「武士に小便を引っ掛けるとは何奴だ!」と腹を立てて二階に登った秀吉だが、「信長だ、差支えあるまい」と信長が答えると、秀吉は「いかに主とは言え小便を掛けられるのは不本意です」と返した。
その場を取り繕う返事をせずに、自分の正直な気持ちを信長にぶつけたのである。
信長は「そなたの心を見ようとしたことだから許せ、これから取り立てて活躍させてやろう」と秀吉を重用したという。
有名なエピソードは後世の創作か
たった一夜で城を築いた「墨俣一夜城」の逸話は、秀吉の株を上げたエピソードとして有名であるが不明な点も多く、創作であるとの声も大きい。
信長の最大の危機と言われた「金ヶ崎の退き口」では、秀吉が殿(しんがり)の総大将を自ら名乗り出たとされているが、その頃、殿軍には秀吉より上の池田勝正や明智光秀がいたためこの説にも疑問が残る。
秀吉の指は6本あった?(先天性多指症)
秀吉の指は6本あったという話があるが、これは主に2つの史料によるものである。
一つは外国人宣教師のルイス・フロイスが著した『日本史』である。フロイスは実際に秀吉に何度も会っているし、フロイスの『日本史』は母国語で本国の為に著した書であり、日本に対する政治的忖度もなく信憑性の高い史料といえる。
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。身長が低く醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」
ルイス・フロイス『日本史』より
しかしキリスト教を保護し手厚くもてなしてくれた信長に比べ、秀吉はバテレン追放令を発し宣教師たちを弾圧したので、これは私怨のあるフロイスの創作だという声もある。
だがもう一つ史料である前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館)にも指が6本あったことが記されている。『国祖遺言』は加賀藩の一門や家臣団に向けて、前田利家の事績を賞賛するために書かれた言行録である。
あるとき蒲生氏郷、前田利長、金森長近ら3人は聚楽第で、前田利家の居間の側の部屋で夜半まで話をしていた。
「太閤様は、右手の親指が1つ多く6つもあった」
その会話が聞こえた利家は「太閤様ほどの方であれば若いときに6本目の指を切っておけば良かったのに・・そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた)と語った(現代訳)
実は海外にもう一つ史料がある。
当時の朝鮮の儒学者、姜沆(きょうこう)が秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)で捕虜となり日本に移送され、3年ほど滞在した際に見聞きしたことを著した『看羊録』にも、秀吉には指が6本あったと記されているのである。
これらの史料に対して信ぴょう性も問う声もあるが、ルイス・フロイスの「日本史」を読んでみると見たままを書いている印象を受けるし、天下人であった秀吉に対して悪い印象を与える文を書くことは日本人には難しかったことも推測できるので、筆者としては秀吉が多指症であったことは信ぴょう性が高いと見ている。
秀吉の臆さない強気の逸話
小牧・長久手の戦いの後、秀吉は上洛した家康の元へなんと近習1人だけを連れて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で翌日の拝謁(高貴の人にお目にかかること)の打ち合わせをして酒を酌み交わしたという。
九州征伐で降伏した島津義久に対して義久が丸腰であると見た秀吉は自らの佩刀を与えた。義久は秀吉の目の前で刀を得て秀吉は隙だらけだった。しかし義久は秀吉を討ち取る機会を得るも出来なかった。
小田原征伐に遅参した伊達政宗に、秀吉は佩刀を預けて石垣山の崖上で2人きりになった。島津義久の時と同じように秀吉は隙だらけであり、しかも崖の上だった。しかし政宗も秀吉の度量に気を呑まれて斬りつけることが出来なかった。
小田原征伐の際、銃弾が秀吉の頭をかすった。これが悔しかった秀吉はなんと1人で城に近づいて鉄砲の激しい場所で小便をした。
武のイメージはあまりない秀吉であるが、なんとも豪気なエピソードである。
秀吉の人気取り
明智光秀の家臣・宮部加兵衛は最初秀吉に仕えていたが、光秀が秀吉からの扱いを聞くと少しの功績で想像以上の多くの褒美を与えていたという。(秀吉は光秀より太っ腹だった)
賤ヶ岳の戦いの最中、猛暑にあえぐ負傷兵に対して秀吉は農家から大量の菅笠を買い、敵味方の区別なく被せて回った。
秀吉は北野天満宮で開催した茶会(北野大茶湯)に際し「茶の湯執心の者は若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶水指一つ、湯呑み一つでよい。抹茶の無い者は麦こがしでも構わないから持参すべし」としたために総勢1,000名が参加した。
低い身分出身で苦労を重ねてきた秀吉ならではのエピソードである。
主君・信長に対して
秀吉も信長に負けないほどの無類の刀剣コレクターで、秀吉が収集した名刀を記した「紙本墨書刀絵図(しほんぼくしょうとうえず)という刀剣書を作った。
秀吉は信長公を「勇将であるが良将ではない」と言い、その理由を「剛を持って柔に勝つことを知っていたが、柔が剛を制することを知らなかった」とした。
「信長公は敵対した者に対してはいつまでも怒りを解かず、ことごとくその根を断って葉を枯らし降伏する者も誅殺した。これは器量が狭いためだ。人には敬遠され衆から愛されることはない」と評した。
信長を呼び捨て
2014年、兵庫県たつの市が購入した古文書の中に、秀吉が重臣・脇坂安治に送った手紙33通が見つかり大きな話題となった。
解読した東京大史料編纂所の村井祐樹助教によると、「この手紙は主に脇坂安治をねちねちと叱責する内容であり、秀吉はしつこく細かい性格」と述べており、その中に
「秀吉の御意に違う候輩、信長の時の如く少々拘え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事たるべく候」
※現代訳 「秀吉の意思に背く者どもを、信長の時代のように少々かくまっても許されると思い込んでいるならば厳しく処罰する」
といった一文が見つかり、なんと主君信長を呼び捨てにしている。
この書状は1585年頃のもので、信長の死からたった3年後で書かれたもので天下統一前である。さらには信長を狭量と評しておきながら、実際には信長の方が「意に反した者」に対して寛容だったことも伺える。
そして本来、信長の死後は、信長の子孫たちに天下を与えるべきなのに、切腹や追放に追い込み自身が天下を簒奪している。
最後に
低い身分出身で「人たらし」「太っ腹」なイメージの秀吉であるが、実際にはコンプレックスが強くねちねちと人を責め立て、攻撃的で尊大な面も合わせもった複雑な人間性だったようである。出世前と出世後でこれほどイメージが違う人物も珍しい。
低い身分出身の者がカリスマ的人間性でのしあがり、天下を取った後で厳しく疑り深く残虐になるという傾向は世界史的にもよく見られるが(中国の劉邦や洪武帝など)、天下統一はそれだけ陰惨な事業なのかもしれない。
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死んだ信長を呼び捨て「分かる~」だってずうっと「猿」って言われていたんだよ、気持ちが分かる面白かった。