世界には多くの民族が存在する。その中でも戦争や戦いの中にアイデンティティを持っている民族がいくつか存在している。
古代ギリシアのスパルタ人、ヨーロッパの北方民族ヴァイキング、ネパールのグルカ族、オセアニアのマオリ族などが有名である。
彼らは歴史上において戦いの中で活躍し、生活、文化そのものが戦いであった。
今回はアジアの中で最も勇猛であり、現在でも世界中の傭兵として戦い続けているグルカ族について調べてみた。
グルカ族の歴史
グルカ兵は、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦・白兵戦に非常にたけた戦闘集団である。
実際にはグルカ族なる民族は存在せず、マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳民族から構成されている。その中で傭兵を生業にしているものをグルカ兵と呼ぶ。【のちの記述で「グルカ族」、「グルカ兵」の両方が出てくるが民族としての記述はグルカ族、傭兵のグルカ族のことをグルカ兵と記述する】
ネパール人にとって傭兵業は外貨獲得の有効な手段の一つであった。
1809年にラホールのマハラジャによってグルカ族が登用された。ネパールとイギリス東インド会社軍との戦争(英・ネパール戦争)の頃から、東インド会社もグルカ族を登用するようになった。
ネパール山岳民族特有の尚武の気質と、小柄でありながら強靭な体力と白兵戦の強さ、山岳地帯での走破能力、そして宗教的な制約の少なさで傭兵として使いやすく、各国は彼らを積極的に登用した。
一方でヒンドゥー教徒のインド人は宗教的な制約が多く(食事、軍事物資の使用などの制約)、近代戦の兵士に向かず、運用に不自由をきたしていた。
1857年10月にセポイの乱が発生すると、ネパールは14,000人のグルカ兵を派遣し、イギリス軍が行った鎮圧戦で大きな戦力となった。
その後も二回の世界大戦においてグルカ兵はイギリス軍として戦った。旧日本軍とも戦闘経験がある。
大戦後、イギリス占領軍として占領任務に従事、その後の朝鮮戦争やイギリスとアルゼンチンが領有権を争ったフォークランド紛争にも参加している。
現在でもグルカ兵は各国の傭兵として世界中の紛争地域で戦っている。
グルカ族の強さの理由
グルカ族は山岳地帯の民族特有の小柄な体系をしており、平均身長は150cmほどである。
性格は勇猛かつ敏捷である。
小柄であるが故に平地での徒競走は体格の良い欧米人の方が速いが、斜面を登る速さは圧倒的に彼らの方が上であった。
例を挙げると、英国のサウスダウンズと呼ばれる丘陵地帯では、毎年トレイルウォーカーと呼ばれる100㎞に渡るレースが開催されているが、最も優れたイギリスチームであってもこの100㎞の道のりを走破するのに12~13時間かかったが、グルカ族は8.5時間しか必要としなかった。
グルカ族は傭兵になるために少年期にスカウトされて、小さなころから軍事訓練、格闘訓練を行うことになる。
山岳民族から選抜された時点でエリートであるが、専門的な教官により高度な教育を授けられた。
射撃能力、伝統武術的な格闘能力、各種最新兵器の使い方や戦術論などを幼いころから学び、規律の取れた傭兵として育て上げられるのである。
射撃姿勢に移るまで0.5秒で終わるとも言われており、機敏な行動に優れている。
グルカ族は自分たちの民族の言語を話せるのはもちろんのこと、公用語であるネパール語、更にイギリスとの関係が深いことから英語も話せて、隣国インドの公用語のヒンディー語まで話せる。彼らの多くは、4か国語以上話せるマルチリンガルである。
「臆病であるぐらいなら死んだ方がマシである」という哲学を実践していることも、グルカ族の伝説的な強さの理由である。
彼らの伝統は200年以上前、グルカ兵が結成されるよりも前からのもので、ネパールの山岳民族は毒矢は使わず、戦死者を敬い、死を恐れずに最善を尽くし、誰よりも任務への忠誠心が高かった。
彼らはヒンドゥー教や仏教、イスラム教や独自のアニミズムが混じった宗教観を持っている。
それ故にヒンドゥー教のアヒンサー(不殺生)や、牛を殺すなかれという伝統(食事だけでなく軍事物資としての牛・牛製品の利用も禁止)からも自由だったことも強みである。
イスラム教の断食月、ラマダンやハラール(ブタ肉などの食料制限)にも囚われてはいなかった。
兵士に向かない宗教的な制約を持たない文化であったことも、グルカ族の強さである。
グルカ族の象徴グルカナイフ(ククリナイフ)
グルカナイフは用途によって様々な重さや長さがある。
標準的なサイズは刃渡り30㎝ほどで、その形状は大きな「く」の字を描いていて、内側に反っているのが特徴である。
これはグルカナイフが、彼らの住む山林での農作業などで生活するうえで発展したために、こういった独特の形状をしているのである。
木の枝に引っ掛けて枝を打ち払ったり、草や藪を払うとき、足元の不安定な斜面で対象物が刃から逃げないようにするための工夫である。
また、刃の付け根に「チョー」と呼ばれる窪みがあるが、こちらは実用よりも儀式的な意味合いの強い物で、彼らの信奉する神々の陰部を模したものと言われている。
このグルカナイフは、突くことや鎌のように薙ぎ払う、薪割のように振り降ろして切断する、投げ斧のようにして使うなど、元の使用用途が生活のためであったことから様々な使用方法が可能で、一本あれば過酷な環境でも戦いながら生き残ることが出来た。
グルカナイフは日本人の刀や騎士のロングソード、インディアンのトマホークのように彼らの魂であり象徴である。
グルカ族の現在
グルカ兵は、歴史的にイギリスやイギリス連邦諸国との繋がりが深く、イギリス陸軍にはグルカ兵からなるグルカ旅団がある。
2005年の段階でイギリス軍に従軍しているグルカ兵は約3,600人である。
フォークランド紛争時には、グルカの兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼンチン部隊もあったという。
現在においてもイギリスからの信頼は非常に厚く、2004年にはイギリスのブレア首相によって、イギリス軍で勤務したグルカ兵は、完全なイギリスの市民権を付与されるようになった。
またインドには2000年時点で10万人のグルカ兵が在籍する(ゴルカ連隊)
シンガポール警察でも2000人のグルカ部隊が存在し、要人警護などに就いている。1949年に組織され、初代大統領リー・クアンユーも「民族間紛争の暴動鎮圧のため、民族的に中立な彼らを登用した」と回顧録に記している。
その他、イギリス連邦諸国に駐屯しているほか、マレーシア軍、アメリカ海軍にも雇用されている。
また、非同盟政策をとるネパールは、国連のPKO要員として受け入れられることも多い。
2014年1月末時点で、人口2700万人の小国ながら4692人を派遣し、これは世界で7番目の規模である。
グルカ族の伝説的な功績
『1人で30名のタリバン兵を撃退』
2010年イギリス軍としてアフガンに派遣されていたパン軍曹が検問所での歩哨の任務中に、タリバン兵30名が迫ってきた。
彼は機関銃とSA80を手にし400発の弾丸と17個の手榴弾、クレイモア(近接地雷)1つで応戦。
支援が到着する15分間、検問所を一人で守りきった。
『ナイフ一本で40人の武装強盗に立ち向う』
2010年9月、インドのラーンチーからゴーラクプルに向かう列車に、ヴィシュヌ・シュレスタというインド兵が乗っていた。
彼はインド陸軍に所属するグルカ兵で、退役して実家に帰る途中であった。
夜になり突然列車が止まり、銃やナイフで武装した40人もの強盗団が列車を襲撃。彼らは乗客を脅して財布や時計、ノートパソコンなどを奪っていった。シュレスタは抵抗せず、ただじっと強盗団の様子を見ていた。
しかし強盗団の1人が、シュレスタの近くにいた少女をレイプしようとしたことで、シュレスタはククリナイフを抜き少女に襲いかかる男を切り、強盗団との戦闘になった。
10分程の戦いで、シュレスタは3人を殺害し8人を負傷させ強盗団は退散。乗客を救ったのである。
『走行中の車にヘッドショット』
2015年5月未明、シンガポールで日本をはじめとしたアジア各国の防衛担当相らが参加するアジア安全保障会議の会場ホテル近くで、3人乗りの乗用車が警戒線を突破し、警官に運転主が射殺される事件があった。
彼らはテロではなく、薬物違反者というのが後ほどの公判で判明したが、爆弾テロの可能性もあり射殺された。
この時の射殺が動く車をガラス越しに頭部を射貫くという精密な射撃であった。
この任務にあたったのが、シンガポール警察に雇われているグルカ兵であった。
グルカ族まとめ
山岳地帯という過酷な環境で生活する彼らは環境に適した小柄な体系と持久力、そして勇敢に戦うための思想を持ち、現在存在する最強の戦闘民族であると言える。
小柄で持久力があり、民族を象徴する武器があるといったところは日本人にも共通するところが多い。
旧日本軍との戦い(インパール作戦)では日本軍はグルカ兵に勝てずに敗退したが、グルカ兵は「これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった」と語っている。
日本人にも武士道という戦士の思想があったことが、彼らグルカ兵に尊敬の念を抱かせたに違いない。
最後にグルカ兵を表す言葉で締めくくる。
~死を恐れないものは嘘つきかグルカ兵である~
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