改めて言われるまでもなく、世の中とは実に不条理なもので、善行を積んだからと言って必ずしもよい結果がもたらされるとは限らず、優秀で勤勉な人物が必ずしも成功するとは限りません。
よく「勝てば官軍」などと言うように、正義だから勝ったのではなく、結果として勝ったからこそ正義を主張できるのです。
それが世の習いとは言え、やはり一抹のやるせなさは禁じ得ず、往時の武士たちにもそのような思いを抱えている者がおりました。
今回は武士道のバイブルとして著名な『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と、太田三楽斎(おおた さんらくさい。太田資正)のエピソードを紹介したいと思います。
秀吉のマウンティング
一一五 太閤様、太田三樂に仰せられ候は、「そなたは智仁勇を兼ねたる良将なり。されども小身なり。吾は一徳もなし。天下をとる事が得方なり。」と。
※『葉隠』巻第十より【意訳】
太閤(秀吉)は太田三楽斎に
「そなたは優れた智能と篤い人望、そして武勇をすべて兼ね備えたすばらしい大将じゃ。しかし、故郷を追われて我が下へ身を寄せるばかり。一方わしは、そなたと違って何の取柄も人徳もないが、天下を獲ることだけは得方(えかた。得意)なんじゃよ」
とおっしゃったそうである。
……こんな事をわざわざ言うのは、坂東にその名も高き勇士と知られた太田三楽斎に対するコンプレックスであり、「最後に天下が獲れさえすれば、軍才も将器も関係ないわい!」という大人げない勝利宣言なのでしょう。
そんな事(※)ばかりしているから、周囲の者に内心で軽蔑されてしまうのですが、こればかりはどうにも直らなかったようです。
(※)晩年の秀吉は御伽衆として天下の人材を広く集めて身辺に侍らせましたが、そこには高貴な身分だったり、評判が高かったりなど自分のコンプレックスを刺激する者を従え、彼らの優位に立つことを好みました。
三楽斎(太田資正)の生涯を駆け足で紹介
ちなみに、三楽斎こと太田資正(すけまさ)は大永2年(1522年)、武蔵国岩付城(現:埼玉県さいたま市)城主・太田資頼(すけより)の次男として誕生します。
天文5年(1536年)に父が亡くなると、家督を継いだ長兄・太田資顕(すけあき)と対立、岩付城を出て松山城(現:埼玉県比企郡吉見町)に移りました。
その後、兄が南関東で勢力を伸ばしていた北条(ほうじょう。後北条)氏に臣従姿勢を示す一方、資正は主君である扇谷上杉(おうぎがやつ うえすぎ)氏と共に北条氏に対抗します。
天文15年(1546年)の川越夜戦で主君・上杉朝定(ともさだ)が討死、扇谷上杉氏が滅亡すると、一度は松山城を明け渡した資正ですが、翌天文16年(1547年)に隙を衝いてこれを奪回。
同年10月に兄が急死すると、岩付城を攻略して実力で太田の家督を継承したものの、親北条派の家臣たちが離反。これによって再び北条氏が巻き返し、松山城を任せていた上田朝直(うえだ ともなお)の寝返りもあって完全に孤立。
とうとう天文17年(1548年)に北条氏へ降伏。しばらくは北条の家臣として従い、嫡男・太田氏資(うじすけ)と北条の姫が婚約するなど、家中でそれなりの地位を占めていました。
しかし永禄3年(1560年)に越後国(現:新潟県)から長尾景虎(ながお かげとら。後に上杉謙信)が攻めて来るとこれに寝返ります。
これは北条氏によって所領を追われてしまった関東管領・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)の地位を回復するための義兵であり、上杉家に仕えていた資正としては味方する大義名分がありました。
しかし、北条とすれば「ハイそうですか」とは認められず、裏切りに対する報復として資正を攻撃しますが、今度は長尾景虎との連携もあって、幾度もの猛攻をよくしのぎます。
攻めあぐねた北条氏は永禄6年(1563年)、資正を懐柔するため朝廷に推挙。資正は民部大輔(みんぶのだいゆう)に叙任されましたが、そんなことくらいで志を翻す資正ではありませんでした。
しかし永禄7年(1564年)に房総半島の里見(さとみ)氏と連合して北条氏と対決するもこれに敗北(第二次国府台合戦)。態勢を立て直そうとしたものの、親北条派であった嫡男の氏資によって岩付城から追放されてしまいます。
その後、どうにか岩付城を奪還しようと奮闘するも失敗、娘婿であった成田氏長(なりた うじなが)や下野国(現:栃木県)の宇都宮(うつのみや)氏、常陸国(現:茨城県)の佐竹(さたけ)氏など各地を転々と身を寄せながら反北条勢力の結集に奔走しました。
最終的には天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原・北条征伐に際してこれに参陣。冒頭の『葉隠』エピソードがもし実話だとしたら、この頃の話ということになります。
とうとうにっくき北条氏の滅亡を見届けましたが、翌天正19年(1591年)に病死。故郷の岩付城に戻ることはなかったそうです。
終わりに
以上、三楽斎こと太田資正の生涯を、ざっくり駆け足で紹介してきました。反北条に燃えて関東各地の勢力を結集するべく奔走、武略や外交に高い能力を発揮するも、とうとうその志を果たすことは出来ませんでした。
(けっきょく北条氏を滅ぼしたのは秀吉ですし、そこへ資正が影響を及ぼすこともなかったでしょう)
天下を獲った秀吉に比べて、反北条の志を果たせなかった太田資正。一概に比べることは難しいものの、共に能力は備えていながら(流石に秀吉も「一徳もなし」ということはないでしょう)、志を果たすには、それ以外のものも問われているようです。
※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月
黒田基樹 編『【論集】戦国大名と国衆12 岩付太田氏』岩田書院、2013年5月
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