呉の礎を作った小覇王
魏、蜀、呉の三国で最後まで生き残った呉だが、孫権が200年に呉を継いでからこの世を去る252年まで、実に52年という超長期政権を築いていた。
歴史に残る長期政権を全うした孫権だが、呉の領地となる江東を平定して礎を作ったのが兄の孫策である。
今回は、孫権に呉を託して短い人生を全力で駆け抜けた孫策を紹介する。
父の死とハチミツ皇帝からの冷遇
三国志ファンの間では小覇王の名でお馴染みの孫策は、江東を拠点としていた孫堅の長男として生まれた。
まだ小さかった事もあって父の留守を預かっていたが、その頃に周瑜と出会い、生涯の友となる。(同じ敷地に住み「断金の交わり」と呼ばれるほどの強い絆で結ばれた孫策と周瑜は大喬と小喬の姉妹を妻として娶っているが、フィクションの桃園結義とは違い、彼らは本当の義兄弟である)
孫策が留守を預かる中、孫堅は反董卓連合で活躍して名を挙げるが、192年の劉表攻めの最中に一人でいる時に矢を受けて命を落とす。
18歳で父を失うとともに家を背負う事になった孫策は、袁術の元に身を寄せる。
袁術の元で孫策は活躍を続けるが、哀れな死に様から「ハチミツ皇帝」と揶揄される袁術に孫策を使いこなす力も、孫策から尊敬を勝ち取る人徳もなく、三国志屈指のダメ人間である袁術に愛想を尽かした孫策は独立を決意する。
江東平定と小覇王誕生
袁術から冷遇される日々を送りながらも孫策は張紘、張昭、陳武、凌操など後に呉で活躍する人材を集めて独立の機会を伺っていた。
その頃、袁術と劉繇が揚州の支配を巡って争っており、孫策はこれをチャンスと呉景(孫堅の妻「=孫策の母」の弟で孫策の叔父)の援軍として揚州に向かう事を志願する。
無能の代表格として描かれている袁術も孫策の才能は高く評価しており、このまま逃げて独立されたらまずいと思っていた(だから孫策を冷遇するという無能ムーブはさすがハチミツ皇帝である)が、孫策が袁術に預けている兵は1000人程度であり、寡兵では独立出来ないだろうと援軍に向かう事を許可する。
袁術に預けていた兵を返して貰った時は僅かな兵だったが、周瑜、蔣欽、周泰、陳武、凌操など後の呉の主力となる面々が兵を連れて合流し、最終的には5000人以上に増えていた。
長江を渡って本格的に戦闘に加わると、孫策は連戦連勝を重ね、あっという間に劉繇を敗走させる。
揚州を手に入れた孫策は「これまで敵軍の配下だった者でも降伏する者は歓迎し、罪にも問わない。自分の軍に加わりたい者は家族の労働を免除する。逆に、加わりたくない者は従軍を強制しない」と宣言し、即座に大衆の心を掴む。
従軍を強制せず、選択の自由を与えたところに孫策の人柄と君主としての素質を感じさせるが、重税を課す事しか考えない袁術とは180度違う方針に人々は喜び、孫策の軍に加わりたいという者が次々と集まり、最終的に3万人超の大所帯となる。
念願の拠点を手に入れた孫策だが、袁術との関係も蔑ろにはせず、呉景と従弟の孫賁を返して関係を維持する事も忘れなかった。
その後も孫策の快進撃は続き、呉郡の許貢、現地豪族の厳虎(厳白虎)、会稽の王朗を撃ち破り、江東、江南と呼ばれる地域を僅か二年で制圧する。
かつて江東を拠点とし、抜群の武勇を誇った項羽にちなんで孫策は「小覇王」と呼ばれるようになったが、これは演義で付けられた異名であり、正史にこの異名は登場しない。
絶頂期からの暗殺
孫策が江東での地盤を固めるのは各勢力にとって脅威だったが、孫策の躍進を特に恐れていたのは袁術だった。
周瑜、魯粛といった優秀な人材は孫策の配下同然であり、ほとんど孫策のために働いているようなものである。(呉に隣接する丹陽太守の周尚は周瑜の叔父であり、形の上では叔父とともに袁術の配下だったが、周瑜は孫策の地盤を固めるために動いていた)
袁術は丹陽太守として袁胤を送り込むが、孫策は袁胤を追い出し、公式に江東の支配と袁術からの独立を宣言する。
僅かな期間に一大勢力を築き、呉の主要人物となる人材を集めていた孫策が袁術のために働いていたら、本当に伝説の仲王朝が成立していた可能性が高く歴史のif好きとしては是非とも見たい世界線だが、孫策はハチミツ皇帝とは違う意味で敵を作りすぎていた。
急速な勢力拡大は、それだけ滅ぼされた(孫策に恨みを持つ)勢力が存在する事を意味しており、晩年は残党が起こした反乱の鎮圧と、反乱勢力の粛清に追われていた。
孫策に敗れた勢力の一人である許貢は「孫策の武勇は項羽に似たものがあるから朝廷に置いて囲うべき」と書いた上奏文を朝廷に送ろうとしたが、それを知った孫策は激怒して許貢を殺してしまう。
それでまた新たな恨みを買う事になるが、孫策は自身に危機が迫っているとは夢にも思わず、曹操が官渡の戦いで留守にしていた許昌を狙う計画を立てる。
曹操は孫策を恐れて許昌を留守にする事に難色を示したが、最も信頼する郭嘉から「孫策は軽率な行動が多く、周囲に恨みを持つ者も多いから近いうちに命を落とす」という言葉を信じて官渡に向けて出陣する。
郭嘉の言葉通り、孫策は一人で外出したところを許貢の食客に襲われて命を落とす。
天下を取れる可能性を持った小覇王の、あまりに短い絶頂期と人生だった。
夢に終わった天下二分の計
短期間ながらインパクト絶大の実績と、映画のような悲劇性の強い生涯によって孫策の人気は今日でも非常に高い。
実行前に暗殺されたため実現したかは知りようがないが、孫策が曹操の留守にした許昌を攻めていたら時代は変わっていたのだろうか。
それこそゲームでしか叶える事が出来ない世界線だが、孫策と袁紹で天下を二分する時代になっていた可能性は低くない。
また、周瑜も孫策の死の10年後に天下二分の計を実行する直前に病死しており、偶然ではあるが、義兄弟ともに一世一代の大勝負に出る前にこの世を去る悲劇に見舞われている。
孫策と周瑜が長生きしていたら呉はどのような道を辿っていたのだろうか。
小覇王の暗殺は単なる悲劇ではなく、呉のファンが描く天下二分、及び中国統一の夢を閉ざす大事件だった。
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