平家討伐に力を合わせながら、いざ平家を滅ぼすや次々と弟たちを滅ぼして行った源頼朝(みなもとの よりとも)。
源義経(よしつね)を奥州平泉に自害せしめ、源範頼(のりより)を伊豆修善寺に幽閉・暗殺したと言います(諸説あり)。
特に言葉尻(※)をとられ、謀叛の言いがかりをつけられてしまった範頼は実に気の毒でした。
(※)頼朝が刺客に襲われた際、鎌倉で不安に怯える政子(まさこ)たちに「それがしが控えている=お護りするから大丈夫」と励ましたのを、将軍位を狙う野心と曲解されたのです。
さて、そんな頼朝の弟殺しは現代の私たちに彼が冷酷であるとの印象を与えますが、頼朝の父である源義朝(よしとも)も負けていません。
義朝が殺した弟の数はなんと9人。しかも父親である源為義(ためよし)も殺しています。
いったいどんな事情があったのか、今回は『保元物語』より源義朝が父と弟たちを殺したエピソードについて紹介したいと思います。
義朝、泣く泣く父を斬らされる
時は保元元年(1156年)7月、皇位継承問題をめぐって後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱。義朝は後白河天皇に、父の為義らは崇徳上皇にそれぞれ味方しました。
果たして後白河天皇が勝利を収め、戦後処理として崇徳上皇に味方した者は次々と処刑されます。
まず、平清盛(たいらの きよもり)が叔父の平忠正(ただまさ。平忠貞)を処刑しました。
「それがしが叔父を斬ったのだから、とうぜん左馬頭(義朝)殿は父上を斬られるのでしょうな?」
実は清盛、信西(しんぜい。藤原通憲)と謀って源氏の力を削ごうと積極的に(喪ったところで痛くもかゆくもない)忠正を斬ったのです。
その意図を察した義朝は当然の如く抗議します。
「父親と叔父では喪う重みが全く違う。確かに我が父は敵方の総大将であったから責任は免れないが、既に出家して法体(ほったい。世俗を離れた身)となり、その罪を詫びている。ここは死一等を減じて配流などとすべきではあるまいか」
子が親(まして出家して僧となった者)を殺すなど、とんでもない罪業である……義朝が恐れたのは当然でした。
どうか自身の武功と引き換えにご助命いただきたい……方々に奔走した義朝でしたが、それを聞き入れる清盛・信西ではありません。
「えぇい黙れ。畏れ多くも天皇陛下の勅命であらせられるぞ。よもやそなたは御聖慮に抗おうなど……」
「滅相もございませぬ!」
かくして保元元年(1156年)7月30日、義朝は七条朱雀(ひちじょうすざく。七條大路と朱雀大路の交差点)で泣く泣く為義を斬ったのでした。享年61歳。
これは大同5年(810年)に「薬子の変」の首謀者である藤原仲成(ふじわらの なかなり)が射殺されて以来、400年以上ぶりの死刑であり、世に大きな衝撃を与えたことは言うまでもないでしょう。
まだ終わらない信西の仕打ち
清盛が叔父を斬り、義朝が父を斬り、これで辛くも一件落着かと思いきや、信西は義朝に対して要求を重ねます。
「此度の戦さで我らに仇なした弟どもも、併せて斬るように!」
……という訳で、義朝は弟の源左衛門頼賢(さゑもんよりかた。為義の四男)・源掃部助頼仲(かもんのすけよりなか。同五男)・源六郎為宗(ろくろうためむね。同六男)・源七郎為成(しちろうためなり。同七男)・源九郎為仲(くろうためなか。同九男)も斬らされました。
ちなみに次男の源帯刀先生義賢(たてわきのせんじょうよしかた)は前年の大蔵合戦で義朝の長男・源義平(よしひら。悪源太)が討ち取っています。
また三男の源三郎先生義憲(さぶろうせんじょうよしのり。志田義広)は坂東に下向していておらず(諸説あり)、八男の源為朝(ためとも。鎮西八郎)はとっくに逃亡していました(後に捕らわれ、伊豆大島へ流される)。
「こんだけ斬れば満足かチクショウめ!」
次々と肉親を斬り殺して半ばキレ気味であったろう義朝に対して、信西はなおも要求を突きつけたのです。
「そなたにはまだ弟がおったな。それらも悉く斬るように!」
この時、義朝には4人の弟が生き残っていました。
乙若丸(おとわかまる。為義の十二男で当年13歳)
亀若丸(かめわかまる。為義の十二男で当年11歳)
鶴若丸(つるわかまる。為義の十三男で当年9歳)
天王丸(てんのうまる。為義の十四男で当年7歳)
※なお、十男の源行家(ゆきいえ。新宮十郎)は熊野におり(出家していた?)、十一男の仙覚(せんがく)は身体が弱かったためか既に出家。それぞれ見逃されています。
「そんなバカな!実際に弓引いた左衛門たちはともかく、まだ幼い者たちまで斬れとはあまりにもあまりな仰せ」
「やかましい!その者らとて父兄の怨みを抱き、大きくなれば弓をとろう。禍の芽は今の内に摘むべし!」
だったら清盛にも忠正の縁者を斬らせろよ、と言いたい義朝ですが、その要求を通すだけの力を持っていません。
「……やむを得まい。次郎」
「ははあ」
義朝は家人の秦野次郎延景(はたのの じろうのぶかげ)に命じて、隠れている弟たちを迎えに行かせたのでした。
幼い武士たちの立派な最期
「あ、次郎だ!」
「お帰りなさい、父上は?兄上たちは?」
少年たちの無垢な瞳に出迎えられ、延景は良心を押し殺して嘘をつきます。
「父上や兄上がたは斬られたということになっていますが、それは世間に対する表向きのこと。実は生きておいでにございますれば、次郎がお連れ申し上げまする」
……で、やってきました船岡山(京都市北区。頼賢らもここで斬られている)。当然誰もいません。
「次郎、父上たちは?」
「実は……」
事情をすっかり話した延景に対して、少年たちは口々に抗議します。
「今すぐ兄上(下野殿)に使いを出して。『なぜ私たちを斬ろうとなさるのか。私たち4人が力を合わせれば、兄上にとって100の兵にもまさろうものを』とお伝え下され」
【原文】九になる鶴若殿、「下野殿へ使をつかはして、いかに我等をば失ひ給うふぞ。四人を助け置給はば、郎等百騎にもまさりなんずるものを。此よし申さばや」
※『保元物語』下巻「義朝幼少の弟悉く失はるゝ事」
いっときの勢いに乗じて寄せ集めた百二百の軍勢よりも、たとえ幼くても兄弟5人が力を合わせた方がよほど恃むに値する……9歳の子供であっても、その覚悟は立派に武士のそれでした。
続いて亀若丸が「誠に今一度人をつかはして、たしかにきかばや(意:本当にそれでいいのか、もう一回確かめさせて下さい)」と続けますが、乙若丸はそれを制して言います。
「お前たち、無駄なことだ。さすがは当家に生まれ、幼くとも心は武士だが、まだまだ未熟だな。
そもそも七十(勘違い?誤記?)にもなろうという高齢の、しかも病気で出家までした父上を斬るようなヤツが、今さら我らを助ける訳がなかろう。
まったく哀れな兄上(左馬頭=義朝)よ。こんなのどう見ても清盛の陰謀なのに、目先の保身で父も兄弟も喪ってしまったら、最後は自身が滅ぼされるのが分からんとはな。
まぁ、ヤツの命も後2~3年ってところかな。次郎、そして皆の者も我が言葉を覚えておくがいい。
……しかし、一人生き残った下野殿(義朝)が討たれ、源氏の世が絶えてしまうのは口惜しいものだなぁ……」【原文】「あな心うの者どもの云がひなさや。我らが家にむまるゝ者は、をさなけれども心はたけしとこそ申に、かく不覚の事をの給もの哉。世のことはりをわきまへ、身の行末をも思ひ給はば、七十に成給ふ父の、病気によて、出家遁世して、頼て来り給ふをだにきる程の不当人の、まして我々をたすけ給ふ事あらじ。哀はかなき事し給ふ頭殿哉。是は清盛が和讒にてぞあるらむものを、おほくの弟兄をうしなひはてて、只一人になして後、事の次に亡さんとぞはからふらんをさとらず、只今我身をもうせ給はんこそかなしけれ。二三年をも過し給はじ。をさなかりしども、乙若が舟岡にてよくいひしものをと、汝等も思ひあはせんずるぞとよ。さても下野殿うたれ給うて後、忽に源氏の世絶なん事こそ口をしけれ」
※『保元物語』下巻「義朝幼少の弟悉く失はるゝ事」
13歳(満12歳)、現代の感覚で小学6年生くらいの少年が、今まさに殺されようとしている場面でこのセリフ。平生からの覚悟が伝わってくるようです。
とは言え、乙若丸は嘆き悲しむ弟たちへのフォローも忘れません。
「しかし、弟らよ……考えようによってはむしろ良かったかも知れんな。考えてみろ。父も兄たちも討たれ、独り生き残った頭殿(義朝)はもはや敵方……たとえ生き残ったところで乞食として各地をさまよい、人々から『あれが源氏の子供らか』と笑われて生き恥をさらすのが関の山。であれば、みんなで極楽浄土へ参り、父上たちと再会しようではないか」
【原文】「な歎き給ひそ。父もうたれ給ひぬ、誰かは助けおはしまさん。兄達も皆きられ給ひぬ。情をもかけ給ふべき頭殿は敵なれば、今は定て一所懸命の領地もよもあらじ。然ば命たすかりたり共、乞食流浪の身と成て、こゝかしこまよひありかば、あれこそ為義入道の子どもよと、人々に指をさゝれんは、家の為にも恥辱なり。父恋しくば、只西に向て南無阿弥陀仏と唱て、西方極楽に往生し、父御前と一蓮に生れあひ奉らんと思ふべし」
※『保元物語』下巻「義朝幼少の弟悉く失はるゝ事」
「「「はい!」」」
……かくして4人の子供たちは姿勢を正し、立派な最期を遂げたということです。
終わりに
「そうか……」
延景より弟たちの最期、そして乙若丸の言葉を聞いた義朝は、深く心を痛めたことでしょう。
しかし、斬ってしまっては後の祭り。果たして信西の仕打ちを恨んだ義朝は、藤原信頼(のぶより)と組んで世に言う平治の乱(平治元・1159年~永暦元・1160年)を起こします。
信西は討ったものの、すっかり力を(強制的とは言え、自ら)削いでしまった義朝は清盛の前に敗れ去り、逃亡中に討たれてしまいました。
「こんな事になるなら、兄弟で力を合わせて立ち向かった方がまだマシだったか……」
目先の保身で父や弟たちを殺して自らの力を削ぎ、破滅していった源義朝。このことは、現代の私たちにも教訓を与えてくれているようです。
※参考文献:
- 岸谷誠一 校訂『保元物語』岩波文庫、2012年8月
- 榊山潤『新名将言行録 源平~室町』講談社、1977年8月
- 元木泰雄『保元の乱・平治の乱を読みなおす』NHKブックス、2004年12月
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