皆さんは、自分のご先祖さまに興味はありますか?
「ウチは大した家柄でもないから……」
「別に有名人の子孫って訳でもないし……」
そう思われるかも知れませんが、どんな方にも(健在か否かはともかく)両親がいて、その両親にもそれぞれ両親が……という具合に、必ず祖先は存在します。
別に知らなくても困らないけど、興味を持ってみることで、自分の代まで命をつないでくれたことに感謝の気持ちが湧き起こるかも知れません。
……という訳で、以前に自分の先祖調査・家系図作成についてその体験を記事にまとめさせていただきました。
※参考:自力でファミリーヒストリー(家系図)を作ってみた【素人でもここまで出来る】
その時は、自分の代から12代・約350年を遡る家系図を作成できたのですが、今回はその続編。
郷土史料を繙(ひもと)いてご先祖様の名前を確認、その暮らしぶりを調べてみたので、紹介したいと思います。
「お前の先祖なんて興味ねーよ」
と思われるでしょうが、もし皆さん(あるいは他の誰か)がご自身の祖先に興味を持たれた際、何かの参考になるかも知れません。
※以下、前回の記事を前提として書いていきます。必要に応じてご参照ください。
夫婦と子供で精いっぱい?与左衛門さんの暮らしぶり
今回調べてみた史料はこちら。
『相模国鎌倉郡公田村御検地帳 須藤家文書』
場所は現代の神奈川県横浜市栄区公田町あたり、江戸時代初期の延宝6年(1678年)6月に成瀬五左衛門(なるせ ござゑもん)が実施した検地帳の写しを、須藤家で保管していたものです。
検地帳を見ていくと「あらひ沢」という地名が登場。角田家の屋号(※)となっている「洗沢(あらいさわ。現:荒井沢)」を指しています。
(※)江戸時代、庶民は公的に苗字を名乗れなかったため、地名などをファミリーネームとして用いたのが屋号です。皆さんがご先祖様を調査される時のキーワードとなることもありますから、この概念を覚えておいて下さい。
で、ここに与左衛門(よざゑもん)という人物が登場。彼こそが我が角田家のご先祖様。筆者から遡って11代目の祖先となります。
菩提寺の過去帳によれば与左衛門は元禄14年(1701年)に亡くなっています。生年こそ判りませんが、「あらひ沢の与左衛門」と言えば他にいません(わざわざ同集落内で紛らわしい名前をつけるとは思えず、常識的には考えにくいでしょう)。
で、その暮らしぶりを支える田畑の広さと言うと……まずは検地帳の記載をそのまま写しましょう。
七間壱尺 六間半 下田 壱畝拾六歩 与左衛門
八間五尺 七間半 下田 弐畝六歩 仝人(同じ人=与左衛門)※『相模国鎌倉郡公田村御検地帳 須藤家文書』
7間1尺 6間半 下田 1畝16歩 与左衛門
8間5尺 7間半 下田 2畝6歩 仝人
……インド数字に直してもさっぱりですね。どうやら参考文献によれば、3.22畝(せ)ほどの田んぼ(いずれも下田/げでん:痩せた土地)を持っていたそうです。
この畝(せ)とは土地面積の単位で、1畝≒1a(100平米)とのこと。歩(ぶ)とは1/100畝なので約1平米。要するに与左衛門さんは322平米(3.22a)の田んぼを持っていたことが判ります。
田んぼ1a当たりのコメ収穫量は60kg(※)、これは大人1人が一年間で消費する量に相当するため、与左衛門さんの家では大人3人が食いつなげる程度の収穫があったようです。
(※)参考:たんぼからとれるお米の量|NHK for School
ただし、これは現代の農業技術によって実現した数値であり、また収穫したコメの中から年貢も納めねばなりません。
なので、実際には夫婦と子供でカツカツ……というよりコメだけでは間に合わず、他のものと併せることでその日の腹を満たしていたのでしょう。
文献によると、与左衛門さんは田んぼの外に2.06畝(約206平米)の畑も持っていたようなので、そっちの収穫(何を育てていたかは不明)で自家消費を補ったものと考えられます。
こうして見ると、現代の私たちが想像する「米のおまんまは贅沢品で、日頃は雑穀を混ぜ込んで飯を炊いていた昔の農家」そのもの。
歴史の教科書に出て来そうなごく当たり前の風景……しかしいざ自分のご先祖様も同じように暮らしていたと思うと、その苦しい生活に感情移入することひとしおです。
終わりに
以上、今回の調査では代数こそ遡れませんでしたが、与左衛門さんの暮らしぶりについて何となくながらイメージをつかむことができました。
与左衛門さんの後は清兵衛(せいべゑ、生年不詳~享保13・1728年没)-教善(きょうぜん。俗名不詳、生年不詳~宝暦10・1760年没)-靎枩(つるまつ。生年不詳~文化5・1808年)……と続いていきます。
彼らの暮らしぶりはもちろんのこと、もっと代数を遡り、戦国時代以前のご先祖様たちについても史料を突き止めたいものです。
(※菩提寺の過去帳では12代祖先まで。菩提寺は度々火災に遭って記録が散逸、それ以前はそもそも過去帳が存在しなかった可能性も)
一朝一夕で出来ることではないものの、根気強く取り組めば、少しずつでも着実に成果は上がってきます。
もし皆さんがご先祖様に興味を持たれたら、まずは戸籍の取り寄せや、高齢者への聞き取りをまとめるところから始めてみると面白いですよ!
※参考文献:
- 北條祐勝ら編『相模国鎌倉郡公田村御検地帳 須藤家文書』栄地域史研究会、2004年10月
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