古今東西、異性問題は人生のキャリアに大きな影を落とし、時には取り返しのつかないこともしばしば。
今回は江戸時代、島原の乱(寛永14・1637年10月25日~同15・1638年2月28日)で一番鎗の大武勲を立てながら、女性問題で破滅してしまった佐賀の鍋島藩士・石井正能(いしい まさよし。伝右衛門)を紹介。
果たして、どのような末路をたどったのでしょうか。
島原の乱で一番槍を果たすも……
石井家は代々鍋島家の重臣として活躍、正能も父から家督を継承し、伝右衛門の名乗りと家禄201石を受け継ぎました。
初代藩主・鍋島勝茂(なべしま かつしげ)のお側役として仕え、島原の乱では一族の石井正之(まさゆき。弥七左衛門)と共に敵陣へ一番槍を果たします。
「「よっしゃあ!」」
しかしこの時、攻撃命令がない状態で乗り込んでしまったため、もしかしたら徳川将軍家よりお咎めがあるかも知れません。
「どうする?」
一番槍をとればお咎めを受ける可能性がある……悩んだ結果、一番槍は「堂々と申し開きが出来るから」という理由で弥七左衛門が受けることに。
結局、将軍家からのお咎めはなかったようで、弥七左衛門は625石の知行を拝領したのでした。
「いよっしゃあ!」「……ちぇっ」
虎穴に入らずんば虎子を得ず……弥七左衛門と伝右衛門、両者の運命は次第に明暗を分かつことになります。
妻の不倫、一族から「畜生門」と蔑まれ……
一番槍を逃したとは言え、弥七左衛門と共に武勲を立てた事実は誰もが認めるところ。伝右衛門は鍋島家中の英雄として勝茂に重用されました。
とうぜん江戸への参勤にも随行しますが、江戸では同僚たちの目を盗んで遊郭通いを始めます。
「これは鍋島様、いらっしゃいまし……」
実名では不都合なので鍋島主膳(しゅぜん)と偽名を使い、いそいそ楽しんでいたある日のこと。
「おい、そなたの御内儀が……」
聞けば妻が国許で、自分の留守をいいことに弟と密懐(びっかい。不倫)していたという情報が入ります。
天網恢恢疎にして漏らさず……女遊びの罰が当たったのか、みんなの目は欺けても、お天道様はお見通しだったようです。
「「「石井家の恥さらしめ!」」」
妻と弟の不倫によって伝右衛門の家は一族じゅうから絶縁され「畜生門」と呼び蔑まれました。
そのせいで伝右衛門の嫡男・次左衛門(じざゑもん。石井氏之)は妻を実家に取り返されてしまいます。
まさに泣きっ面に蜂。しかも災難はこれだけで終わらず、伝右衛門の遊郭通いもバレてしまいました。
失意の帰国、そして……
「……此度ばかりは、不問に処す。国許でちと反省せぇ」
勝茂は先祖代々の忠義と島原での武功に免じて伝右衛門を無罪とし、佐賀へ帰国させることに。
「ははあ、有り難き仕合せ……」
さて、帰国した伝右衛門は島原の英雄から一転、畜生門の主として蔑まれる日々を過ごします。
するとそこへ、一人の女性が伝右衛門の元を訪ねてきました。何と馴染みの遊女が佐賀まで遠路やって来たのでした。
「ねぇ、お願いだよ。あたいを身請けしておくれよ」
「このような事をされては困る。なにぶん謹慎中の身ゆえ……」
とは言っても、さすがに女一人で佐賀まで来てくれたのを、トンボ返りさせるのは忍びない……伝右衛門は仕方なく、彼女を屋敷に迎え入れます。
「何、伝右衛門が?」
女性問題で謹慎中に女性を連れ込むとは何事か……さすがに看過できない勝茂は、やむなく伝右衛門に切腹を申しつけました。
「「「殿、どうか命ばかりは……」」」
同僚の大木兵部(おおき ひょうぶ)や中野内匠(なかの たくみ)、鍋島舎人(なべしま とねり)らが助命嘆願したものの、ここで甘い顔をしては家中に示しがつきません。
かくして正保2年(1645年)2月9日、伝右衛門に切腹のうえ家禄没収、家督を断絶するという厳しい処分が下されたのでした。
終わりに
四二 石井前傳右衛門江戸御参観御供の留守に、女房、弟と密懐致し候に付て、一門中より打ち捨て申され候。彼の家をその頃畜生門と言ひて、一門残らず不通致され候。倅次左衛門女房は、山本前神右衛門娘にて候を、中野一門より取り返し申され候。傳右衛門は江戸にて遊女狂ひ仕り候半ば、御式臺へ鍋島主膳様と書き附け候文箱、遊女町より持参候に付て、斯様の名此方家中にこれなき由申し候へば、紋所人體委しく申し達し、いづれ相渡さず候ては罷り成らざる由申し候。傳右衛門に紛れこれなく候に付、引き附け帰し申し候。この事隠れなく、御耳に達し、科仰せ付けらるべきやと聞合せの為、吉原へ中野前将監遣はされ、その後何となしに差し下され候。一番乗仕り候者故差し免され候と相聞え候。然る処、右の遊女御国へ尋ね下り候。傳右衛門力及ばず、先づ宿元へ呼び入れ申し候。この事顕然、切腹仰せ付けられ候。その時分大木兵部、中野内匠、鍋島舎人、御前へ罷り出で候由。これは御殺しなされざる樣にと申し上げらるゝ為かとなり。次左衛門十二三年浪人にて罷り在り候處、帰参仰せ付けられ候。その子傳右衛門、又浪人なり。
※『葉隠聞書』第六巻より
かくして世を去った伝右衛門。その家督は12~3年の歳月を経て倅の次左衛門が復活させ、家禄100石で再仕官を果たしたと言います。
次左衛門の子はまた伝右衛門(石井氏久)と名乗り、その血脈を後世へと受け継いでいったのでした。
女性問題で失敗してしまった伝右衛門の教訓は、現代の私たちも肝に銘じておきたいところです。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 中』岩波文庫、2011年6月
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