秀吉の台頭
「本能寺の変」の後、明智光秀を「山崎の戦い」で破った羽柴秀吉が、織田家の中で急速にその力を増していった。
織田家筆頭家老の柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、勝家を自害に追い込んだ秀吉は、着実に天下統一に向けて駆け上がっていった。
すると数正は「賤ヶ岳の戦い」の戦勝祝いの使者として、秀吉のもとに行くように家康に命じられた。
その真の目的は、天下統一に向けて突き進む秀吉と今後どのように接するべきかを家康に代わって推し量ることであった。
数正にとってはこれが秀吉との初対面であり、家康から託された祝いの品、信長が愛用していた名物茶器の「初花」を献上したのだ。
当時、茶の湯に傾倒していた秀吉は大いに喜び、数正を手厚くもてなしたという。その場で二人がどのような会話をしたのか知る術はないが「人たらしの天才」と言われた秀吉が「外交・交渉の名人」と言われた数正と、腹の探り合いをしたのは間違いないはずである。
ちなみにこの時、数正の有能さに感心した秀吉が引き抜き話を持ち掛けたという説もあるが、この時の数正には全くその気が無かったとされている。
小牧・長久手の戦い
翌年の天正12年(1584年)3月、家康と秀吉との間に「小牧・長久手の戦い」が起きる。
家康は信長の次男・織田信雄の援軍として秀吉軍と戦うことになり、数正は徳川軍として秀吉に牙を向けた。
数正は家康が本陣を置いた小牧山城を守る留守居役を任せられ、一進一退の激戦を後方から支援した。
兵の数では秀吉軍の方が大きく勝っていたが、家康軍は秀吉方の有力武将たちを次々と討ち取っていき、この戦いを有利に進めていった。
しかし織田信雄が、戦いの途中に家康に無断で秀吉と勝手に和睦してしまったのである。
元々信雄に加勢する形で参戦していた家康は矛を収めるしかなく、こうして「小牧・長久手の戦い」は終結した。
そして家康は秀吉との関係修復のために、再び数正を秀吉のもとに送ったのである。
そこで二人がどのようなやり取りをしたのか?
おそらく秀吉は、数正に自分の天下統一への思いや展望を熱く語った。
そして家康が和睦に応じるように説得してくれと、数正に頼んだ。
この後、秀吉は家康のもとに使者を送って和睦を打診している。
その後、家康は当時11歳であった次男・於義丸(後の結城秀康)を、養子として秀吉に差し出した。
養子と言えば聞こえはいいが、実質的には人質である。そして秀吉のもとに向かう於義丸の同行人を務めたのが数正であった。
その際、数正は実子の勝千代(後の石川康勝)を一緒に連れて行き、秀吉に預けている。
数正は、まるで自分が人質時代の家康を支えたように、実子の勝千代も於義丸を支えるために秀吉に差し出したのである。
この行動を見ると、この時点においても数正の家康に対する忠義心は揺るぎないもののように見える。
裏切る数正 5つの説
天正13年(1585年)11月13日、数正は妻子と100名ほどの家臣を連れて、突然岡崎城を出奔して秀吉のいる大坂城に向かった。
家康にとってはまさに「青天の霹靂」、肩を落とすしかなかった。
では、なぜ数正は家康から突然離反したのだろうか?この出来事は「本能寺の変」と並ぶ戦国時代の謎だとされている。
これまで多くの説があげられている。
説① 家康への不信感
数正が家康のもとを出奔する6年前に、家康の嫡男が自刃した信康自刃事件が起こった。
数正が以前決死の覚悟で救出した家康の正室・築山殿(瀬名姫)が家康の家臣に殺害され、信康も切腹を命じられて21歳という若さでこの世を去った事件である。
これは信康の正室だった信長の娘・徳姫が、築山殿や信康と仲が悪く、信長に告げ口したことが始まりである。さらに築山殿は武田と内通していたという疑いをかけられ「信長の圧力に屈した家康が泣く泣く二人を処断した」というのが通説となっている。
しかし近年の研究では「信康が家康に反発して徳川家の乗っ取りを企てていた」という説も出ている。
そして家康は、先手を打って信康と築山殿を亡き者にした。
この事件がきっかけで、数正は家康に対して不信感が芽生えて徳川家を去ったのではないか、という説である。
説② 徳川家での孤立
「小牧・長久手の戦い」の後、家康は次男・於義丸を秀吉に差し出したが、秀吉の臣下になったわけではなかった。
家康と秀吉の関係は、いわば冷戦状態にあった。
家康は秀吉の主君であった信長の同盟者であったことから、自分は秀吉よりも格上だと思っていた。
「農民出身の成り上がり者の秀吉に屈するものか」という思いが強かったのだ。
その思いは徳川家の多くの重臣たちにもあった。一方、天下統一を進めたい秀吉は何としても家康を臣下にしたいと考えていた。
そんな時に、家康の使者として度々来訪していたのが数正であった。
秀吉は数正との会談の際に、家康が秀吉に臣従するべき理由や利点を説いたと思われる。
そして数正は秀吉と会談するうちに、秀吉の言葉に納得するようになっていった。
実際に数正は、家康と重臣たちの前でこう語ったという。
「おのおの方、大局を見られよ。今や徳川の兵力は秀吉の半分以下、しかも北には上杉がいて東には北条がいる。ここは秀吉の望みを聞き入れて殿が秀吉の臣下となる以外、徳川の生きる道はない」
しかし徳川の重臣たちは聞く耳を持たず、家康も不機嫌になるばかりであったという。
三河武士たちは一本気過ぎて融通が利かない者が多かった。
そんな中で数正は外交や交渉を得意とするインテリタイプであったこともあり、数正と意見が合う者が少なかった。
孤立無援になった数正は徳川家での居場所がなく、新天地を求めて秀吉のもとに向かったという説である。
説③ ヘッドハンティング
農民出身で譜代の家臣がいなかった秀吉は、優秀な人材をすぐに欲しがる人材コレクターでもあった。
そのため、竹中半兵衛や石田三成らは、ヘッドハンティングで家臣になっていた。
上杉の直江兼続や伊達の片倉小十郎らも引き抜こうとしたが、これは失敗に終わっている。
天下人になる前の秀吉は「人たらしの天才」と呼ばれていた。ヘッドハンティングの成功率はかなり高かったのである。
秀吉が数正に目をつけた理由は、優れた武将であることに加えて徳川家の軍事機密を知っていることだった。
数正は会談する度に秀吉から誘われ、金銭面でも好条件を出されたことで、ついに心変わりしたという説である。
説④ 徳川家を守る
数正の進言に耳を貸さず、秀吉の臣下になることを頑なに拒んでいた家康だったが、当時の兵力差は歴然であった。
もし秀吉が本気になれば、徳川家が滅ぼされる危険も大いにあった。
そのため、数正はあえて裏切り者の汚名を受け、家康たちの危機感を煽ったという説である。
説⑤ 家康のスパイ
近年になって提唱されているのが「数正は家康の命を受けて秀吉の臣下になった」というスパイ説である。
中途半端なスパイでは秀吉に感づかれてしまうため、家康以外の者には真相を告げずに秀吉の家臣となり、敵の内部から徳川のために働こうとしたというものである。
「古狸」と言われた策士の家康ならやりそうなことではある。
このように諸説があり、数正は一つの理由ではなく色々な要素が重なって出奔(離反)を決意した可能性もある。
数正の離反は大きな話題となったが、主君を変えることは戦国時代ではそれほど珍しいことではなかった。
秀吉のもとで
忠義を尽くしてきた家康のもとを去り秀吉に仕えた数正は、和泉国に所領を与えられた。
しかし、天正14年(1586年)10月、家康もついに秀吉の臣下となった。
これで数正が手土産として持って来た徳川家の軍事機密は、ほとんど価値を失ってしまった。
また、数正が秀吉についたことで、徳川軍は軍制を武田流に改めていた。
秀吉にとっても数正を優遇すれば、ようやく臣下になった家康を刺激してしまうため、数正の扱いが非常に難しくなってしまった。
数正は単なる重荷となってしまったのである。
そのため数正は秀吉の直臣団に組み入れられたが活躍の場はなく、不遇の日々を過ごすことになった。
数正に残ったのは「家康を裏切った」という事実だけになってしまった。
「数正はもう使い道は無い」という辛辣な言葉が数正邸に貼られたという。
おわりに
天正18年(1590年)石川数正は、小田原征伐を果たし天下統一を成し遂げた秀吉から信濃国松本10万石が与えられた。
数正は雄大な松本城の築城、城下町や街道の整備に尽力した。
文禄2年(1593年)頃に数正は死去した(没年には異説がある)。生年が定かではないため享年は分からないが、61歳位だとされている。
数正が亡くなってから約7年後、「関ヶ原の戦い」で天下を掴んだのはかつての主君・家康だった。
草葉の陰から見ていた数正は、一体どう思っていたのだろうか?
関連記事 : 石川数正は なぜ家康を裏切ったのか? 【戦国屈指のミステリー】前編
殿石田三成はヘッドハンティングされたのではないぞ。
確かにすいません