徳川秀忠とは
徳川秀忠(とくがわひでただ)は、徳川家康を父に持ち、三男でありながら家康の後継者となり二代将軍に就任した人物である。
「偉大なる父を持つ二代目は辛い」これは正に秀忠に当てはまる言葉である。
ある時、家康は側近の一人に「秀忠は律儀過ぎる。人は律儀のみではならぬものだ」と話したという。
それを聞いた側近はこれを秀忠に伝え「殿もたまにはホラでも吹かれた方が良いのでは」と進言した。
すると秀忠は「父上だからホラを吹いても許されるのだ。何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」と答えたという。
秀忠が、真面目で実直な性格であったことが分かるエピソードである。
秀忠に将軍職を譲った後も、家康は駿府で「大御所政治」を行い、「大坂冬の陣・大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼし、260余年に渡る泰平の世の礎を作った。
それに対し秀忠は、徳川本隊3万8,000の大軍を率いながら、わずか2,000人ほどが籠城する真田親子の上田城を攻めきれず、天下分け目の関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を犯す。
その後の大坂の陣でも目立った活躍もなく、将軍職に就任してからも大御所・家康の命に逆らえず「家康の傀儡(かいらい)」と呼ばれた。
初代将軍・家康、息子の三代将軍・家光に比べると、秀忠は「地味」というイメージがある。
正室・お江の嫉妬のため側室を置けず、お江の留守中にお忍びで隠し子を設けたが、それもお江には言えなかった情けない男だったとも言われている。
本当に秀忠は駄目な2代目だったのだろうか?
家康の後継者・徳川秀忠の真実の姿について前編と後編にわたって解説する。
家康の後継者となる
徳川秀忠は、天正7年(1579年)遠江国(現在の静岡県)の浜松城で生まれた。
父は三河・遠近の戦国大名・徳川家康、母は側室の「於愛の方(おあいのかた)」、秀忠の幼名は「長松」で三男だった。
ここでは「秀忠」と記させていただく。
三男として生まれた秀忠には2人の兄がいたが、秀忠が生まれた5か月後に長兄・信康が21歳で切腹させられてしまった。
切腹させられた理由は諸説あるが、近年の研究によると「信康が当主の座を家康から奪おうとしていたため、家康が先手を打って亡き者にした」という説が有力である。
長男が亡くなったが、秀忠の上には6歳年上の兄で次男・秀康がいた。
しかし秀康の母は、家康の正室・築山殿の侍女である於万の方(おまんのかた)だった。
正室の侍女に手をつけ産ませた子であることから、秀康は築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、なんと3歳になるまで家康と対面すらできなかったという。
そして秀康は実は双子で、もう一人はすぐに亡くなったという伝承もある。
当時双子は不吉とされ、於万の方は家康の重臣・本多重次のもとに預けられていた。
侍女の子な上に双子ということもあり、秀康は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の元に養子に出され「羽柴三河守秀康」と名乗った。
その後、家康が関東に移封となった時、北関東の大名・結城氏の婿養子になり「結城秀康(ゆうきひでやす)」となった。
そんなことがあり、三男である秀忠が後継ぎとなったのである。
謎多き少年時代 ~秀吉との関係
実は、秀忠がどのような幼少期を過ごしていたのかは、ほとんど分かっていない。
幕末に書かれた「名将言行録」には少し秀忠の記述がある。
ある日、秀忠が家臣の朗読に耳を傾けていたところ、突然巨大な牛が障子を突き破って飛び込んで来た。
慌てる家臣を尻目に、秀忠少年は顔色一つ変えずに「構わぬ、読み続けよ!」と言った
家康に与する武将たちはこの話を聞いて「秀忠の度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」と褒め称えた
幼い秀忠に大きな影響を与えた人物は、乳母(めごと・教育係)の大姥局(おおうばのつぼね)だとされている。
彼女は今川義元の人質になっていた頃の家康の世話係で、その人柄を高く買っていた家康が浜松城に招いたという。
大姥局は既に51歳であったため、当然乳を与える乳母ではなく教育係として秀忠を世話した。聡明な人であったために秀忠からの信頼は厚く慕われていたという。
大姥局は強気な面も持ち合わせた女性で、家康の側近で軍師の本多正信を言い負かしたこともあったという。
そんな大姥局から薫陶を受けた秀忠は、決して驕ることがない謙虚さを身に付けていった。
秀忠が4歳の時に「本能寺の変」が起こり、覇王・織田信長がこの世を去り、その後継者争いに勝利した秀吉が天下人への階段を駆け上った。
天正17年(1589年)天下をほぼ手中に収めた秀吉は、人質として「妻子を上洛させよ」と全国の諸将に命じた。
翌年1月、家康も12歳であった秀忠を、秀吉のいる京都の聚楽第へ送った。
秀吉の最大のライバルである家康の後継者・秀忠を迎え入れ「これで完全に家康が服従した」と秀吉は上機嫌になった。
そして秀吉自ら秀忠の髪を整え、新品の着物を着せて「家康殿は実に良い子を持たれた」と秀忠を可愛がり絶賛したという。
更に翌年から始まった北条氏との小田原征伐では「20万以上の大軍を見せてやりたい」と秀忠を呼び、なんと自分の甲冑を着せて「我が武運にあやかられよ」と何度も背中を撫でてやったという。
当時まだ「長松」と名乗っていた秀忠に、秀吉は自分の「秀」の一文字を与えて「秀忠」とし、元服させたのも秀吉であった。
秀吉が秀忠を家康の後継ぎと認め、とても大事にしていたことが分かる。
姉さん女房を娶る
文禄4年(1595年)9月、17歳になった秀忠は秀吉の肝入りで結婚した。
その相手は浅井長政と信長の妹・お市の方との間に生まれた浅井三姉妹の三女・お江であった。
お江は信長の姪であり、この頃、秀吉が寵愛していた浅井三姉妹の長女で側室の茶々(淀殿)の妹である。
だが、お江は秀忠よりも6歳も年上の姉さん女房で、今回がなんと3度目の結婚、しかも出産経験者でもあった。
そんなお江に秀忠は「お江殿には頭が上がらぬ、頼もしい方だ」と思ったという。
お江と結婚したことによって秀忠は秀吉の相婿(あいむこ)、つまり姉妹の夫同士という関係になり、豊臣家と密接な関係を持つことになった。
実はこの2年前、淀殿が秀吉の嫡男・秀頼を産んでいたため、秀忠を秀頼の補佐役にしようと秀吉は考えていたのだ。
秀忠は、徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていたのである。
しかし、3年後の慶長3年(1598年)8月に秀吉がこの世を去ると、状況は一変する。
秀忠の父・家康が天下取りへと本格的に動き出し、「関ヶ原の戦い」へと突き進むことになるのである。
大失態
慶長5年(1600年)9月、秀忠は中山道を脇目も振らずに西へと急いでいた。
何故、秀忠は必死に西へ向かっていたのか?それは約2か月前に遡る。
天下取りを目指す家康と、豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激化したのである。
上杉討伐に向かって諸将を率いていた家康のもとに「京都にある徳川方の伏見城を三成方(西軍)が襲撃した」と、三成挙兵の知らせが届いた。
家康は上杉討伐を取り止め、自らは江戸を経由して東海道を西へ向かった。
そして秀忠には、3万8,000にも及ぶ徳川本隊の大軍を率いて中山道から西へ向かうように命じた。
22歳であった秀忠はこれが実質的な初陣であった。
家康は秀忠に「戦に慣れた精鋭部隊、徳川四天王の1人・榊原康政、家老・大久保忠隣、軍師・本多正信」といった歴戦の猛者たちをつけた。
家康はこの戦いで、自分の後継者である秀忠の存在を広く世に示そうとしたのだ。
こうして万全の体制を整えた秀忠は、父の期待に応えようと心に誓い、8月24日に宇都宮城を出立したのである。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させた後、江戸城で全国の諸将に手紙を送り、体制を整えて9月1日に出立した。
その後、東海道を西に進み、9月11日に尾張の清州城に入城した。
この時、三成ら西軍の主力部隊は美濃の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは家康の到着を待って大垣城への総攻撃をかけようとしていた。
しかし家康は「風邪をひいた」として、清州城からすぐには出陣しなかった。
それは先に出立したはずの秀忠軍がまだ到着していなかったからである。
そして東軍の主力は三成を嫌っている武将たちだったが、その多くは豊臣恩顧の大名たちであった。
信じてはいるものの、全てを信じる訳にもいかず、徳川譜代の部隊だけでは心もとないし、このままでは秀忠の活躍の場がなくなる。
そう考えた家康は秀忠の到着を待ち望んでいたが、一向に徳川本隊はやって来なかった。
第2次上田合戦
秀忠は、西軍についた真田昌幸・真田信繁(通称・幸村)親子が守る上田城を落としてから西へ向かおうとしていた。
上田城攻めは若い秀忠の独断だったという話もあるが、実は家康の命令であったという。
たかだか2,000~3,000の真田軍などに、3万8,000の大軍勢が負ける訳はないと家康も考えていた。
しかし戦上手の真田昌幸は、秀忠よりも一枚も二枚も狡猾であった。
秀忠は9月3日に真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣した。すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついて来たため、秀忠は昌幸たちの助命を約束する。
しかし2日後、昌幸は「実は戦の支度を整えており、武器も兵糧も運び入れが済んだので、いつでも一戦交えよう」と逆に宣戦布告してきたのである。
まんまと騙された秀忠は大激怒して上田城への攻撃を開始した。
当初は兵力に勝る秀忠軍が優勢だったが、真田親子の巧みな攻撃や地の利を活かした戦術に翻弄され続け、次々と兵たちが討ち取られて大苦戦となった。
秀忠軍には家康の軍師・本多正信、徳川四天王の榊原康政、小田原城主で秀忠付きの大久保忠隣といった歴戦の猛者がついていたが、初陣である秀忠には彼らをうまく動かせる統率力がなかったのである。
また、腕に覚えがある有力武将が多く、逆に一枚岩になれなかったことも大きな要因となった。
そんな中、秀忠のもとに「西軍との決戦が迫っているからすぐに西上せよ」という家康からの書状が届く。
上田城攻めをあきらめた秀忠は、9月11日に中山道に戻り西上を再開した。
しかし真田軍の追撃を警戒しながらの進軍は速度を上げることができず、さらに途中の河川が大雨で増水し渡るのに相当な時間を費やしてしまった。
焦った秀忠は「我だけでも先に進まねば」と、わずかな兵のみを連れて先を急いだ。
しかし、秀忠がまだ信濃を走っていた9月15日の午前8時頃、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まってしまうのである。
そして関ヶ原の戦は、なんとわずか半日で東軍の勝利となってしまった。
家康に期待された秀忠は、関ヶ原の戦いに大遅参するという大失態をやらかしてしまったのである。
勝利した家康は近江の大津城に入っており、秀忠が大津城に到着したのは関ヶ原の本戦から5日後、9月20日であった。
大将の資質
秀忠は家康に面会して遅れた理由を説明し許しを請おうとしたが、怒りが収まらない家康は「気分が悪い」と言って面会を拒否し続けた。
家康が怒った理由は遅参だけではなかった。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたことを一番に怒っていたという。
結果的に東軍が勝ったから良かったものの、もし負けていれば少数の兵しか連れて来なかった秀忠は討ち取られてしまう恐れがあった。
秀忠はそこまで考えて動くことができなかったので、家康から「大将の資質に欠けている」と見なされたのである。
この後、秀忠は家康の家臣たちの弁明などもあって何とか家康と面会し、遅参と兵を置き去りにしたことを許された。
家康は「秀忠が後継ぎでいいのか?」と悩み、5人の重臣たちに相談したという。
再度の後継者選び
家康の後継者候補は、次男・結城秀康、三男・秀忠、四男・松平忠吉、五男・武田信吉、六男・松平忠輝の5人であった。
重臣たち5人の意見は、無回答が1名、次男・結城信康を推したのが本多正信、四男・松平忠吉を推したのが本多忠勝と井伊直政、三男・秀忠を推したのが大久保忠隣となった。
関ヶ原の戦いで一番槍の栄誉を得て大活躍した松平忠吉を2名が推したが、数週間後に後継者に選ばれたのは秀忠であった。
大久保忠隣は
「乱世においては武勇の優れは大事だが、天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事である。後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」
と家康に進言したという。
家康は数週間考えて、最終的に大久保忠隣が言ったことが正しいと納得し、秀忠を正式な後継者としたという。
※ただ、家康はこれ以前に秀忠を後継ぎにする意思を固めており、この逸話は信憑性が低いとも言われている。
いずれにせよ遅参したことは秀忠にとって生涯消えない負い目となってしまった。
その後、二代将軍に就任した秀忠はどのような治世を行っていったのか?
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