板垣退助と迅衝隊
幕末において有名な「隊」と言えば、長州において高杉晋作が率いた奇兵隊、土佐の坂本龍馬が組織した海援隊がよく知られていると思います。
そんな中で土佐の板垣退助が率いて戊辰戦争を戦った隊があったことはあまり知られていないようです。
その隊の名は「迅衝隊(じんしょうたい)」と言いました。
薩摩や長州に比べ、土佐藩は徳川の恩を受けて藩祖・山内一豊が興した藩でもあり、徳川への武力討伐には消極的どころか。寧ろ反対の立場でした。
そのような状況下において、板垣個人の決断で果敢に戊辰戦争を戦った迅衝隊について解説します。
土佐勤皇党の残党で結成
迅衝隊は、1868年(慶応4年)1月6日に結成されました。
この結成はかつて武市半平太が率いた土佐勤皇党の一員であり、罪人として土佐の獄にあった島村寿之助・安岡覚之助らを板垣が解放したことから始まりました。
二人が土佐勤皇党時代の残党を糾合して、土佐における郷士や下級武士を集めた迅衝隊を結成させたのです。
これはその3日前に鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利した報せが伝わっても、幕府寄りの姿勢を崩さず藩としての出兵を逡巡していた土佐にあって、板垣が取った苦肉の策と言えるものでした。
迅衝隊 出征
板垣が迅衝隊を結成させたきっかけとして、その前年の1867年(慶応3年)5月に結ばれた薩土密約の存在がありました。
これは元土佐勤皇党であり脱藩していた中岡慎太郎の仲介により、薩摩の西郷隆盛らと土佐の板垣・谷干城らが会見を行い、薩摩と土佐とが討幕に際して共同で兵を挙げるという、ある種非公式な密約でした。
前述の通り、藩の実権を握っていた前土佐藩主・山内容堂は、薩長が主導権を握る状況には歯がゆい思いを抱えながらも武力討幕には反対であり、板垣のように土佐の上士でありながら討幕を推進した人物はいない状況でした。
しかし、1868年(慶応4年)1月7日には朝廷から正式な徳川追討の勅が出され、徳川勢は「朝敵」とされました。
ここに至り、同1月13日に迅衝隊は土佐を出征します。
同年2月7日までは、土佐藩家老・深尾丹波が総督を勤め、その後から1870年(明治3年)11月のまで間、板垣が総督を務めました。
乾から板垣への復姓
迅衝隊は、土佐を出征した後、朝廷より同じ四国の讃岐高松藩、伊予松山藩の征討の命を受けました。
朝敵となることを恐れた両藩が無抵抗だったことで、これを従えた後に上洛を果たしました。
上洛を果たした迅衝隊は、東山道先鋒総督に任じられた板垣を総督として2月14日には東山道の北上を開始します。
この日は板垣の11代前の祖先と伝えられていた武田信玄の重臣・板垣信方の命日であったことから、それまで乾を名乗っていた板垣が、公家・岩倉具視の提言を受けて旧来の板垣に復姓をしたと伝えられています。
甲陽鎮撫隊を撃破
1868年(慶応4年)3月5日、板垣率いる迅衝隊は甲府城への入場を果たしました。
先の岩倉の提言の通り、甲府の民からは、かつての信玄公の遺臣が凱旋したと歓待を持って迎えられ、自主的に追討軍への参加を望む声が上がったと伝えられています。
翌3月6日には、大久保大和(旧近藤勇)が率いた甲陽鎮撫隊と干戈を交えましたが、近代的な装備に勝った迅衝隊はこれを破り、甲陽鎮撫隊を江戸へと敗走させました。
迅衝隊の解散
さらに北上を続けた迅衝隊は、会津へ侵攻して会津若松城を陥落させました。
この後、迅衝隊は解散を迎えましたが、隊士らは土佐への帰郷を果たすと上士格への昇進を受けました。
元の身分が郷士や庄屋であった者らも、維新への貢献から士族へと列されることになりました。
迅衝隊は、早くから武力討幕に賛同していた板垣の下で成立した組織でしたが、それを構成した人物を残したことは武市半平太の大きな功績だったとも言えます。
後の自由民権運動の旗頭として有名な板垣ですが、実は軍人としての貢献もそれに負けていない人物でした。
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