鎌倉時代

これも家名を残すため…鎌倉時代、北条時頼に一族を滅ぼされた三浦家村が恥を忍んで逃げた理由

……而泰村以下爲宗之輩二百七十六人。都合五百余人令自殺……

※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月5日条

【意訳】三浦泰村はじめ一族276名、併せて500名以上が自刃した。

鎌倉幕府の政権を将軍(鎌倉殿)の手に取り戻すべく、執権・北条一族と対立していた三浦一族。

避けがたく激突した両者の最終決戦(宝治合戦)は、北条時頼(ほうじょう ときより)が勝利を収め、三浦泰村(みうら やすむら)はじめ500名以上の自刃をもって幕を下ろしたのでした。

黒地に三浦三引紋。画像:Wikipedia(Mukai氏)

ここで源家累代の大豪族・三浦一族は滅亡したものとされていますが、その家名は完全に断たれてしまった訳ではありません。

今回は宝治合戦を生き延びて後世に三浦の家名を受け継いだ三浦家村(みうら いえむら)とその子孫たちを紹介したいと思います。

三浦家村のプロフィール

三浦家村は生年不詳、三浦義村の四男として誕生しました。通称は駿河四郎(するがのしろう)、後に左衛門尉(さゑもんのじょう)、式部大夫(しきぶのじょう。式部丞)となりました。

藤原頼経(ふじわらの よりつね。第4代)と藤原頼嗣(よりつぐ。第5代)と二代の鎌倉殿に仕え、『吾妻鏡』には兄の三浦泰村・三浦光村(みつむら)たちと一緒に登場しています。

流鏑馬に出場する家村(イメージ)

弓に長けていたようで流鏑馬や笠懸などのイベントがあると射手としてしばしば出場。他にも将軍の夜遊びにお供したり、ちょっとしたことで大喧嘩して出勤停止処分をくらったり、隠し芸大会に出場したり……等々。

怖いんだか愉快なんだか、何とも憎めないキャラクターだったのでしょう。普段は面白いけど、いったんキレると手がつけられない……そんな人物像が浮かんできます。

そんな家村がかの宝治合戦においてどのように戦い、武勇を奮ったのかについて、残念ながら『吾妻鏡』に記述がありません。

果たして三浦一族が滅亡した後、家村のものとされる首級が首実検に出されたものの、容易に判別できない状態だったと言います。

……今日逆黨首等實檢云々。又光村。家村等之首。頗有御不審。未被一决云云……

※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月6日条

【意訳】今日、逆賊の首実検を行なった。光村と家村の首級については判別が難しい状態で、当人のものとは断定できなかったとのこと。

何でも光村は自刃に際して自分の首級と判らぬよう、顔面をズタズタに斬り裂いたと言います。

家村もこれに従った……と見せて首実検の時間を稼ぎ、家村を逃がしたのではないでしょうか。

三浦一族の家名を守るため、鎌倉から脱出した家村(イメージ)

頼経将軍につかへ、宝治元年兄若狭守泰村が謀反にくみし、六月五日一族みな自殺のときにのぞみて、泰村名族の一時に亡むことを憂ひ、ひそかに家村に命じて後裔をたもつべしとなり。家村遺訓によりて其所を遁れさり、諸国を経歴してのち三河国に閑居す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百二十一「平氏 良文流 三浦」より

【意訳】藤原頼経に仕え、宝治合戦で三浦一族の滅亡に際して泰村が三浦の血脈を保つよう命じられた家村は鎌倉を脱出。諸国を放浪して三河国(現:愛知県東部)へ潜伏した。

……その後、光村の首級については何とか本人と確認がとれたものの、家村のそれについては偽物と判断され、6月22日の最終戦果報告では結局「存亡不審(生死および行方不明)」として片付けられたのでした。

令和の現代まで続く三浦家村の子孫たち

かくして歴史の表舞台から姿を消した三浦家村。その子孫は永らく三河国碧海郡重原荘(現:愛知県刈谷市)に暮らしたと言います。

【三浦氏略系図】

為通(ためみち。三浦初代)-為継(ためつぐ)-義継(よしつぐ)-義明(よしあき)-義澄(よしずみ)-義村(よしむら)-家村(いえむら)-義行(よしゆき)-行経(ゆきつね)-朝常(ともつね)-朝胤(ともたね)-正胤(まさたね)-重明(しげあき)-正明(まさあき)-重村(しげむら)-正村(まさむら)-正重(まさしげ)-正次(まさつぐ)-安次(あきつぐ)-明敬(あきひろ)-明喬(あきたか)-義理(よしさと)-明次(あきつぐ)-矩次(のりつぐ)-前次(ちかつぐ)-毗次(てるつぐ)-誠次(のぶつぐ)-峻次(としつぐ)-義次(よしつぐ)-朗次(あきつぐ)-弘次(ひろつぐ)-顕次(たかつぐ)……

戦国時代、三浦正重は土井利昌(どい としまさ)の娘を娶り、やがて徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えました。

子の三浦正次は徳川秀忠(ひでただ)に仕え、一時三浦から土井と改姓したものの、やはり由緒ある家名を絶やすのは惜しいと三浦姓に戻しています。

幕末を迎えた最後の美作国勝山藩主・三浦顕次(画像:Wikipedia)

やがて大名に取り立てられ、明治維新まで三浦の名を伝えるのでした。

一度は絶滅の危機に立たされた三浦一族。泰村の命を受けて恥を忍び、家名を受け継いだ家村の思いは、今も子孫たちに受け継がれていることでしょう。

※参考文献:

  • 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年11月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
  • 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. それでも鎌倉武士なの!?妻の言葉で大きく変わった毛利季光の運命【…
  2. 北条氏を滅ぼした新田義貞 【鎌倉幕府 倒幕への挙兵 悲運の功労者…
  3. 端午の節句とその由来について調べてみた
  4. 小田原梅まつりに行ってみた
  5. 将軍様も夜遊びしたい!『吾妻鏡』が伝える第4代鎌倉殿・藤原頼経の…
  6. 西行 ~若くして突然出家した超エリート武将【桜を愛した歌人】
  7. 【源義経に愛された悲劇の白拍子】 静御前とは 〜頼朝の前で義経へ…
  8. 鎌倉時代、武士や庶民がどんなものを食べていたのか?調べてみました…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

スターリンが指導者だった頃のソ連 【1000万人の大粛清】

『スターリンはあまりに粗暴過ぎる。背信的なスターリンを指導者にしてはならない。』この言葉はソ…

武田信玄はどれくらい強かったのか? 【合戦戦績、天下を取れなかった理由】

武田信玄と言えば「風林火山」の軍旗が有名な戦国大名です。徳川家康や織田信長も恐れるほ…

長野県旧天龍村の奴隷制度「おじろく・おばさ」 インタビューをまとめてみた

前回の記事「20世紀まで続いた日本の奴隷制度 「おじろく・おばさ」~長男以外は奴隷」では、精神科医の…

「光る君へ」で注目の平安時代。 律令法・律令制と身分階級について解説

大河ドラマ「光る君へ」で注目されている平安時代。大化の改新以降、中央に権力を集中させた国家形…

【おぞましい二人】 ムーアズ殺人事件とは 「出会ってはいけなかった全英最凶のカップル」

ムーアズ殺人事件とは、イギリスのイングランド北西部、サドルワース・ムーア(現グレーター・マン…

アーカイブ

PAGE TOP