下関条約への干渉
「三国干渉」とは、その名の通りロシア・ドイツ・フランスの三国が、日本に対して1895年(明治28年)4月23日に行った勧告のことです。
この勧告の発端は、日本と清とが戦った日清戦争に遡ります。
日清戦争とは、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた戦争で、日本が勝利を収めました。
この戦争の講和条約として下関条約(日清講和条約)が両国間で締結され、その中に日本への遼東半島の割譲が定められていました。
この遼東半島の領有権を日本に放棄するよう、武力を背景に勧告された出来事が「三国干渉」でした。
日本の「臥薪嘗胆」
「三国干渉」は下関条約の調印から、わずか6日後に行われました。
この勧告はロシアのウィツテ蔵相が主唱し、フランスとドイツがこれに賛同して行われました。
国際的には日本の遼東半島領有が極東における緊張を高め、平和の妨げとなると説明されました。
当時の日本の外務大臣・陸奥宗光は、中国大陸において日本が領土を得た場合、こうした干渉を招く恐れがある事を予め想定していたとされています。
しかし明治維新後の初の対外戦争に勝利したことで、その見返りを求める国内情勢がありました。遼東半島の割譲を敢えて清に要求せざるを得ないと考えていたと思われます。
しかし、いざ「三国干渉」が現実のものになると政府は対応に苦慮しました。そのため首相であった伊藤博文は御前会議招集して対策案を協議しました。
ここでは、勧告の拒否、処理を列国会議に委譲、勧告の受諾、の3つの選択肢が検討されました。
伊藤は2番目の案を主張しましたが、更なる他国の介入を招きかねないとして、陸奥の言を聞き入れる形で勧告を受諾することに決しました。
ロシアに対する強硬論が高まる中、政府は現状の日本の国力は微弱である旨を表明して、国民に理解を求めました。
しかし当時著名なジャーナリストであった徳富蘇峰が自身の機関紙である「国民之友(こくみんのとも)」において、日本の外交能力の低さを嘆き政府批判を展開するなど、世論はこの決定に不満を募らせました。
日露戦争の元
ロシアは「三国干渉」の主唱国にも関わらず、その後、自らが遼東半島の西端に位置する「旅順」及び「体連湾」を租借するなど、事実上の支配を進めました。
ロシアは極東へと進出するために不凍港を必要としており、南下政策を取って満州における権益の拡大を志向していました。
このため、遼東半島を日本に抑えられることは南満州の海への出口を失うことに繋がるとして、何としても日本の進出を阻害しようと企図していました。
結局、この方向性が日露戦争 へのきっかけとなったのです。
各国の思惑
ドイツは当初、下関条約の内容に異議はないと表明していました。
しかしロシアとフランスが接近することで「自国への脅威の増大の懸念、ロシアの目をアジアに向けさせて安全強化する、極東利権の獲得」といった理由で、干渉に参加する方針に切り替えました。
フランスは、ロシアとドイツの融和が自国の安全保障に有益と判断し、更にロシアと結んだ同盟上の立場から参加しました。
イギリスはロシアから干渉に加わるよう提案されていましたが、これを拒否して中立を守り、アメリカもまた中立の立場を取りました。
清のその後
清の 李鴻章(りこうしょう)は、ロシアと結ぶことで日本の台頭を抑制ようと考え、日本から遼東半島の還付を了承しました。
しかしロシア・ドイツ・フランスの三国は、清に対してその貢献の対価を要求しました。
ロシアは1896年に東清鉄道敷設権を獲得、続く1898年には遼東半島の南端の旅順・大連の租借権(租借地 :ある国が条約で一定期間、他国に貸し与える土地)を手にしました。
同様にてフランスも1895年に安南鉄道の延長、雲南・広東地方での鉱山の採掘権を手にして、更に1898年には広州湾の租借権も延長させました。
ドイツも1898年に膠州湾の租借権を手にしています。
こうした干渉を行った三国の侵出に対し、イギリスもまた威海衛と九竜半島の租借を得て、清への進出を強化しました。
こうした列強各国の行動に清が応じざるを得なかったのは、下関条約における日本への賠償金を確保するためでもありました。しかし結果的には支払う先が異なっただけで、自国の植民地化を自ら進めることに繋がったのです。
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