秀吉に許された 北条氏直
北条氏直(ほうじょううじなお)は、関八州を支配下に置いた戦国大名・後北条氏の第5代当主にして最後の当主となった人物です。
氏直は、第4代当主の父・氏政とともに後北条氏の最大版図を誇った時期を築きなしたが、やがて秀吉の小田原征伐からその領国をすべて失う結果となりました。
しかしその際、父・氏政や叔父・氏照が切腹を命じられたのと異なり、氏直は当主だったにも関わらず秀吉に許され、豊臣臣下の大名として復帰することが出来ました。
よく後北条氏の滅亡を聞きますが、家としては滅んではいなかったのです。
19歳で当主に就任
氏直は父・氏政と正室・黄梅院(武田信玄の娘)との間に永禄5年(1562年)に生まれました。
氏直は天正5年(1577年)3月には元服し、同年11月に15歳で上総攻めに加わりこれを初陣としています。
天正8年(1580年)8月に氏直は父・氏政の隠居を受けて家督を継ぎ、19歳にして北条家の第5代当主に就任しました。
しかしこれは名目上のことで、実質的には父・氏政が未だ若年の氏直を後見する形で実権を掌握しており、この支配体制は小田原討伐まで継続されることになりました。
甲斐・信濃への侵攻と調停
天正10年(1582年)3月に織田信長の侵攻を受けて甲斐の武田氏が滅びると、甲斐には信長の家臣・河尻秀隆が入り、信濃の一部と上野の西側には滝川一益が配されました。
しかし同年の6月に信長が本能寺の変で討たれたことで、河尻秀隆が領民に殺害される事態が発生しました。
これを好機と見た北条氏は、氏直と叔父・北条氏邦の計4万3千の軍勢を以て上野へを侵攻しました。氏直は神流川の戦いで一益勢を破り、信濃まで攻め入ってその一部を支配下に置くことに成功しました。
続く同年8月には、甲斐西部の甲斐若神子城に入った氏直は、そこから徳川家康と対峙することになります。
この天正壬午の乱において氏直は、真田昌幸や木曽義昌らの離反もあって攻め手を欠き、織田氏の調停案を受け入れることになりました。
その案とは、上野を北条、甲斐・信濃を徳川領とし、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐ政略婚の成立を定めた内容でした。
こうして氏直は家康を義父に持つことに相成りました。
小田原征伐
家康との先の調停を受け入れた氏直は、西側の安定を得たことで、以後は東の下野や常陸への侵攻を強めました。
一方、信長の後を受けた豊臣秀吉が中央を制し、大名間の私戦を禁じた惣事無礼を発令すると、北条は豊臣勢との対立姿勢を強めていきました。
そんな折、天正17年(1589年)、北条方の猪俣邦憲が真田昌幸の支城・名胡桃城を急襲してこれを奪う事態が発生しました。
秀吉はこれを惣無事令に違反する行いであるとして北条氏を糾弾します。
氏直はこの件に対し釈明と家康への取り成しを依頼しましたが実らず、翌天正18年(1590年)2月、小田原征伐へと進んでいきました。
氏直は領国の整備と動員を実施しますが、圧倒的な数の秀吉の軍勢の前には小田原城へ籠城する以外にない状況でした。
かくして小田原城は包囲され、同年7月には降伏・開城を迎えました。ここに5代100年余に及んだ後北条氏の関八州支配は終わりを告げる事になりました。
その後の北条家
戦の後、父・氏政、叔父・氏照らは切腹の沙汰を受けましたが、氏直は処断を免れ高野山への追放とされました。
これは、氏直自らがその命と引き換えに家臣ら将兵の助命を請うた潔い態度や、家康の婿に当たることも幸いしたと考えられています。
氏直は翌天正19年(1591年)には公に秀吉の赦免を受けて、大阪の旧織田信雄の邸を与えられたとされています。更にその後、秀吉から河内と関東に1万石の所領をを与えら、豊臣臣下の大名として復活しています。
しかし同年11月、大阪において享年30にして病没しました。
死因は疱瘡(天然痘)と伝えられていますが、氏直の死後は従弟にあたる北条氏盛がその名跡と遺領を相続し、北条家は河内狭山藩主代々務め明治まで続くことになりました。
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