鎌倉殿の13人

北条義時と「無数の和田義盛」が衝突!泉親衡の乱から和田合戦前夜まで【鎌倉殿の13人】

時は建暦3年(1213年)2月15日、とある僧侶が捕らわれました。

彼の名は阿静房安念(あじょうぼう あんねん)。謀叛の協力者を募って各地を回っていたところ、千葉介成胤(ちばのすけ なりたね)がこれを捕らえたのです。

その謀叛こそ、後世に伝わる「泉親衡の乱」。多くの御家人たちが加担しており、その中には鎌倉幕府の侍所別当・和田義盛(わだ よしもり)の子息も含まれていたのでした。

和田義直・和田義重は赦されたが……

天晴。依安念法師白状。謀叛輩於所々被生虜之……和田四郎左衛門尉義直。和田六郎兵衛尉義重……和田平太胤長……和田……凡張本百三十余人。伴類及二百人云々……此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衛門督殿若君。爲大將軍。欲奉度相州云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)2月16日条

「四郎!六郎!平太!」

安念の自白により、捕らわれた和田一族は以下の通り。

武勇に長け、兄弟の中でも義盛に寵愛された四男の和田義直。歌川豊国筆

  • 和田四郎左衛門尉義直(しろうざゑもんのじょう よしなお)……義盛の四男
  • 和田六郎兵衛尉義重(ろくろうひょうゑのじょう よししげ)……同じく五男(六郎だけど)
  • 和田平太胤長(へいた たねなが)……義盛の甥(末弟・和田平内五郎義長の子)

『吾妻鏡』にはこのほか和田某(名は不詳)が捕まったとありますが、果たして義盛の一族かは不明です。共謀者は実に130余名、関与者は200人にも及ぶ大々的な叛乱計画でした。

首謀者は信濃国の住人・泉小次郎親平(いずみ こじろうちかひら。泉親衡)。亡き第2代将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)の遺児・栄実(えいじつ)を鎌倉殿に担ぎ上げ、執権・北条義時(ほうじょう よしとき)を滅ぼそうと企んでいるとのこと。

「これは何かの間違いだ!」

上総国伊北荘(現:千葉県いすみ市辺り)に出張していた義盛は鎌倉へ飛んで帰り、源実朝(さねとも)に息子たちの赦免を願い出ます。

天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衛門尉義盛日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次。且考累日勞功。且愁子息義直。義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功。被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目。退出云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月8日条

「……なぁウリン(羽林)、お願いしますよ。我ら一族、亡き頼朝公の時代から身命を賭して忠義を尽くし、数々の武功を重ねて参りました。謀叛なんて何かの間違いです。どうか寛大なご処置を……」

必死の訴えに胸を討たれた実朝は、あくまでも関与の薄い義直と義重について「沙汰を経らるに及ばず」として両名を釈放。義盛は面子が立った(老後の眉目を施した)ので、ひとまず帰って行きました。

和田殿の98人…「無数の和田義盛」を前に、義時がとった最大級の挑発

「父に功績があれば、子の罪は見逃す。それが本当に公正な政(まつりごと)と言えるのでしょうか……?」

「……申すな」

義時の苦言を聞き逃した実朝。こういうのは、一度ゴネ得を認めてしまうと次第に要求がエスカレートしがちです。

「次は平太の赦免をお願いに行こう!」意気込む義盛。歌川芳員「源平英雄競 和田左エ門尉義盛」

果たして翌日、義盛は和田一族98名を引き連れて、今度は甥の胤長を赦免するよう要求しました。

晴。義盛〔着木蘭地水干葛袴〕今日又參御所。引率一族九十八人。列座南庭。是可被厚免囚人胤長之由。依申請也。廣元朝臣爲申次。而彼胤長爲今度張本。殊廻計畧之旨。聞食之間。不能御許容。即自行親。忠家等之手。被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由。相州被傳御旨。此間。面縛胤長身。渡一族座前。行村令請取之。義盛之逆心職而由之云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月9日条

「御所の前に……無数の和田義盛が押しかけてきました!」

「……ホラ言わんこっちゃない」

見渡す限りのヒゲ・髭・髯・鬚……『吾妻鏡』にその顔触れは書かれていないものの、可能な限り(この時点で存命と考えられる者を)ピックアップしてみましょう。

【和田殿の98人】
※義盛本人を除く。

1.和田常盛(つねもり。義盛の長男)
2.和田義氏(よしうじ。同じく次男)
3.朝夷奈義秀(あさひな よしひで。同じく三男)
4.和田義直(よしなお。同じく四男)
5.和田義重(よししげ。同じく五男)
6.和田義信(よしのぶ。同じく六男)
7.和田秀盛(ひでもり。同じく七男)
8.和田義国(よしくに。同じく八男)
9.和田朝盛(とももり。常盛の嫡男)
10.和田八郎(はちろう。詳細不明)
11.和田五郎(ごろう。詳細不明)
12.和田宮内入道(くないにゅうどう。詳細不明)
13.和田弥次郎(やじろう。詳細不明)
14.和田弥三郎(やさぶろう。弥次郎の弟か)
15.和田義茂(よしもち。義盛の弟)
16.高井重茂(たかい しげもち。義茂の子)
17.和田義胤(よしたね。義盛の弟)
18.和田胤定(たねさだ。義胤の子)
19.和田宗実(むねざね。義盛の弟)

……など。

ちょっと解釈が苦しいのも含めて、名前が挙げられそうなのはこんな程度。

側室の実家である横山党(よこやまとう)も一族と解釈すれば、更に30人ほど水増しできそうですが、恐らく名前の残っていない和田一族で98人を埋めたものと考えられます。

胤長赦免のお願いに来た和田一族の一人。ヒゲがむさ苦しい(イメージ)

まぁとにかく和田一族が大挙して胤長の赦免を要求。大江広元(おおえ ひろもと)がこれを取り次いだものの、義時はこれを却下。

「和田平太は先の両名と異なり、謀叛の主犯格。いくら何でもこれは赦せません!」

と、そこまでは理解できます。しかしあろうことか義時は胤長を縛り上げて烏帽子を奪い、義盛たちの面前に引き出すという暴挙に出ました。

当時の成人男性にとって頭髪を晒すのは恥とされ、これ以上ない辱めに和田一族の怒りが燃え盛ったのは言うまでもありません。

胤長との別れを悲しむあまり、死んでしまった荒鵑

「小四郎のヤツ、絶対許せねぇ!」

陰。和田平太胤長配流陸奥國岩瀬郡云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月17日条

胤長は陸奥国岩瀬郡(現:福島県須賀川市)へと流罪にされ、その娘・荒鵑(こうけん。6歳)が悲しみのあまり倒れてしまいました。

和田平太胤長女子〔字荒鵑。年六〕悲父遠向之餘。此間病惱。頗少其恃。而新兵衛尉朝盛其聞甚相似胤長。仍稱父歸來之由。訪到。少生聊擡頭。一瞬見之。遂閉眼云々。同夜火葬。母則遂素懷〔年廿七〕西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月21日条

「父上……父上……」

危篤状態に陥った彼女を何とか励まそうと、和田一族の中でも胤長にそっくりと言われる和田朝盛が、枕もとで胤長を演じます(嘘も方便です)。

「荒鵑、しっかりせよ。父が、父が帰って参ったぞ!」

「父、上……」

最後の気力を振り絞って目を開いた荒鵑でしたが、すぐに息絶えてしまいました。彼女の眼には、胤長が映っていたと信じるばかり。

「荒鵑!」

彼女の遺体はその晩の内に火葬とし、母親(胤長室。27歳)はその菩提を弔うために出家しました。

可愛い姪孫の死に、深く傷ついてしまった義盛(イメージ)菊池容斎筆

「……鎌倉殿、平太(胤長)の館をもらい受けたい」

頼朝公の時代から、謀叛など罪科によって没収された者の館や土地は親族に引き渡されるのが通例でした。胤長の館は鎌倉御所の東隣にあるため、ここからなら出仕も便利です。

和田平太胤長屋地在荏柄前。依爲御所東隣。昵近之士面々頻望申之。而今日。左衛門尉義盛属女房五條局。愁申云。自故將軍御時。一族領所収公之時。未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之。殊成喜悦之思云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月25日条

「可哀想に……もちろん許すぞ」

「ありがたき仕合せ!」

父と恋しむ余り世を去った荒鵑の話に胸を打たれた実朝は、当然これを認めました。しかし、義時はこれに異を唱えます。

「何と軽率な……いざ有事となればすぐ東から攻め込まれますぞ!」

「相州(義時)よ、そなたには情というものがないのか!」

「鎌倉殿のお気持ちも解ります。でもね、あなたは戦ったことがないから和田殿を甘く見ているのです」

義時の横車に葛藤する実朝。守川周重筆

尼御台・政子(まさこ)の説得もあってか、実朝はやむなく命令を覆して胤長の館を義時に与えることに。

さっそく義時は配下の金窪行親(かなくぼ ゆきちか)と安東忠家(あんどう ただいえ)を派遣して義盛の代官である久野谷弥次郎(くのや やじろう)を叩き出すのでした。

実朝と義盛の板挟みになった和田朝盛の出家

相州被拝領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衛門尉義盛代官久野谷弥次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心弥不止而起云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月2日条

「おのれ小四郎!鎌倉殿に無理強いして命令を出させたのは分かっているのだ……もういい!こうなったらウリン(羽林)が顧みてくれるまで、一族の誰も出仕してはならぬ!よいな!」

「「「ははあ……!」」」

かくして政務をボイコットするようになった和田一族。その中の一人・和田朝盛は(頼家の時代から仕え)実朝の寵臣として活躍していました。

「このままでは戦さになる。鎌倉殿に弓を引くなど出来ないし、さりとて一族を裏切る訳にはいかない……」

忠義と情義の板挟みになってしまった朝盛は、こっそり抜け出して御所へと潜入。実朝と面会します。

和田新兵衛尉朝盛者。爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而近日父祖一黨含恨忘拝趨。朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙。逢淨遍僧都。學出離生死之要道。讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心。今夕已欲遂素懷。存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月。於南面有和哥御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。献秀逸之間。御感及再往。又陳日來不事子細。公私互散蒙霧。快然之餘。縮載數ケ所地頭職於一紙。直給御下文。月及午。朝盛退出。不能歸宅。到淨蓮房草庵。忽除髪。号實阿弥陀佛。即差京都進發。郎等二人。小舎人童一人。共以出家云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月15日条

「お別れの挨拶に参りました」

「……そなたに会えず、寂しかった。今まで仕えてくれた褒美に、これを取らせる」

そう言って実朝は下文(くだしぶみ)を書いて朝盛に渡しました。数カ所の地頭職を与える辞令です。

朝盛はきっと出家遁世する。そうなれば(世俗の地位や権力など)無駄になるとは百も承知で、何か気持ちを与えたかった実朝。

「ありがたき仕合せ……」

出家して鎌倉を立ち去る朝盛(イメージ)

御所を退出した朝盛は館に戻らず、出家して実阿(じつあ。実は実朝から)と改名。そのまま京都を目指して上洛したのでした。

義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散欝憤云々。又乍着黒衣。參幕府。依有恩喚也。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月18日条

「何、三郎(朝盛)が逃げただと!?」

義盛は一人でも兵員が必要なところ、まして弓の名手であった朝盛を連れ戻すべく、四男の義直を派遣。朝盛は4月18日に連れ戻されてしまいます。

「……面目次第もございませぬ」

「もうよい、気にするな……」

既に法体(ほったい。仏に仕える身体、出家した身)となり、黒衣をまとった朝盛を前に、実朝の胸中は実に複雑であったことでしょう。

最後の使者も空しく、閉ざされた和解の道

霽。宮内兵衛尉公氏爲將軍家御使。向和田左衛門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合〔無橋〕。其際烏帽子抜落于公氏之前。彼躰似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵随分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歴二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退耻運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已决定歟。但未及着甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩義裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潜以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月27日条

もはや一触即発、和田・北条の合戦は避けられないであろう4月27日。実朝からの使者として、宮内兵衛尉公氏(くないひょうゑのじょう きんうじ)が義盛の館を訪問しました。

「よう参ったな……あっ」

出迎えた義盛は、どういうはずみか烏帽子を落としてしまいます。公氏には、何だか首が落ちるように見えたそうです。

「(あわてて烏帽子を直して)……まったく。これでも故右大将家(頼朝公)の時代はたくさん武勲を立てて、厚い御恩にあずかったンだぜ?それが今じゃこのザマだ。まぁいくら喚いたって、鶴が啼くようなモンで天高く飛ぶ鷁(げき。天界の鳥)には届きゃしないさ……上総介は諦めた、平太(胤長)は助けられなかった。娘は死んだ。今さら謀叛を起こして何になる。もうそんな気力も湧かねぇや……」

使者を迎えた和田義盛(イメージ)歌川貞秀筆

とか何とか義盛は言っていますが、その館内では朝比奈義秀や古郡保忠(ふるごおり やすただ)と言った血気盛んな連中が武備を揃えて眼をギラギラ。

これは明らかに謀叛の気がある。報告を受けた義時は御家人たちにそれとなく用意をさせました。

何としてでも流血を避けたい実朝は、夜になって再度使者を派遣。今度は刑部丞忠季(ぎょうぶのじょう ただすえ)が向かいます。

「だから謀叛なんか企んじゃいませんって……だがしかし、小四郎があんまりひどいモンだからって、若い連中がそっちへ『お話し』に上がるかも知れねぇ。そればっかりは、それがしも止めようがねぇな」

とのことで、取りつく島がありません。開戦(5月2日)まで秒読み、もはや両雄の対決は避けられないところまで来ていたのでした。

終わりに

以上、『吾妻鏡』より泉親衡の乱から和田合戦前夜のおよそ2ヶ月半を抜き出してきました。

和田合戦はひたすら義時が義盛を陥れるために挑発を繰り返し、ついに暴発した和田一族を殲滅するという実に嫌な展開となっています。

※個人的には「鎌倉殿の13人」で取り扱う時代(頼朝挙兵前夜~承久の乱)において最も気分の悪い場面ワースト3(順不同)にランクイン。

(1)上総介広常の粛清(2)畠山重忠の粛清(3)和田義盛の粛清

※数字は時系列であり、後味の悪さはすべて同位です。

和田合戦にて、御所の惣門をぶち破る朝比奈義秀の怪力ぶり。竹之下信成「紙本金地著色和田合戦図」

ただし、いざ勝負が始まると一方的だった訳ではなく、和田一族も相当な奮戦を魅せました。あわよくば北条を滅ぼしてくれればよかったのに……そう思ってしまった『吾妻鏡』読者も少なくないでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのような展開が描かれるのか、臍下丹田に力を込めて見届けていきたいですね。

※参考文献:

  • 石井進『日本の歴史(7) 鎌倉幕府』中央公論社、2004年11月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
  • 笹間良彦『鎌倉合戦物語』雄山閣出版、2001年2月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
角田晶生(つのだ あきお)

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