はじめに
江戸時代の日本は鎖国をしていたというイメージが強いが、実は海外とつながる窓口は4か所も開かれていた。
長崎が幕府公認で、オランダと中国(清)との貿易を行なっていたことは有名である。
しかし実際には、松前藩(北海道)・薩摩藩・対馬藩も、特例として認められていたのである。
また、それ以外の海に面した藩の中で、法令違反であることを知りながら密貿易を行なっていた藩もあった。
近年では、現在の歴史の教科書から「鎖国」という言葉が消える可能性も審議されているという。
江戸時代の日本は、本当に鎖国をしていたのだろうか?
鎖国とは
鎖国は、一般的には寛永16年(1639年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、嘉永7年(1854年)の日米和親条約締結までの期間とされている。
戦国時代に種子島に鉄砲が持ち込まれてから、大名たちは鉄砲や大砲などの武器や火薬の原料となる硝石、その他の珍しい品々を求めてキリスト教の宣教師や外国人と貿易した。
しかしスペインやポルトガルが最終的に思い描いていたのは、キリスト教を布教させ、その信者たちを使って日本を乗っ取ることであった。
そこで幕府はキリスト教国のスペイン人とポルトガル人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国、許可なしの外国への渡航を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策を取ったのである。
島原の乱など、宗教の力による結束力を恐れた幕府はキリスト教の禁教令を発布、堺において外国人からの武器購入を禁止するなど、徐々に諸外国との貿易を禁止していった。
そして表向きには長崎の出島で、中国(清)とオランダとの貿易だけを許可していた。
長崎
長崎は幕府の直轄領で長崎奉行が置かれ、貿易は幕府が造った出島でのみ行われた。
出島は人工の島で、広さは現在の東京ドームの3分の1ほどであった。
この出島にはオランダ人が住んでおり、明治時代に埋め立てられたのだが、昭和になって大規模な復元工事が行われた。
現在は江戸時代にあった建物が忠実に復元されており、その建物のほとんどが2階建てとなっている。
1階は倉庫に使い、オランダ人はその2階に住んでいたため、2階は当時としては少し洋風な印象を受ける建物が立ち並んでいた。
江戸時代、唯一ヨーロッパで交易を許されていたのがオランダで、出島には商館で働く人たちや召使いが暮らしてた。
オランダ人は貴重品の砂糖や生糸を中心に様々な物を出島に持ち込み、日本は金銀銅などで交易を行なっていた。
しかし幕府は金銀の流出を抑制し、清とは年間銀6,000貫目、オランダとは年間3,000貫目に限定し、これを超える場合は銅や俵物などとの物々交換による決済を条件に、交易を許していた。
「鎖国」という言葉を作ったのは阿蘭陀通詞
そのような交易の過程で必要かつ重要であった人達が「阿蘭陀通詞(オランダつうじ)」と呼ばれるオランダ語の通訳である。
彼らはオランダ人との交渉の最前線にいて、通詞たちは出島の端にある通詞部屋に常駐していた。
残念ながら復元された出島には路面電車の関係で、通詞たちが暮らした通詞部屋は復元されていない。
通詞たちの仕事振りを記した「暦象新書」によると、通詞たちはオランダ語の意味を聞いて、それが日本人に伝わるように新たに日本語を作っている。
例えば「引力・遠心力・動力・弾力・物質・加速・分子・真空・楕円・惑星」など、現代科学の基礎となる言葉を彼らは生み出した。
しかも「鎖国」という言葉も通詞が作った言葉であったという。
通詞は通訳の枠を超えた、学問の探求者でもあったのだ。
北海道(松前)
北海道は、江戸時代には「蝦夷地」または「蝦夷」と呼ばれていた。
現在、函館にある北方民族資料館には「蝦夷錦(えぞにしき)」と呼ばれる、色彩豊かな生糸を使った龍の刺繍が施された豪華な着物が展示されている。
実はこの蝦夷錦は江戸時代に大流行し、日本の文化を支えるものになっていた。
江戸の歌舞伎役者たちは、蝦夷錦の派手な衣装(着物)を着ていた。
また、京都の祇園祭の山鉾巡行の山車にも蝦夷錦が使われている。
松前藩の松前氏は、古くから来航する山丹人(アジア北部や樺太に来航する民族、清の人たちも含まれる)とアイヌの人たちを介して間接的に交易を行い、蝦夷錦などの大陸のものを入手していた。
江戸時代になってもその権限が幕府から認められ、鎖国の中北へ開かれた海外への窓口となっていた。
それはまるで北のシルクロードのような道であった。
薩摩藩(鹿児島)
薩摩藩は、琉球王国(沖縄)に侵攻し支配したことで、琉球を通じての交易が認められていた。
鹿児島県の名物・サツマイモは、現地の鹿児島では「からいも(唐いも)」と呼ばれている。
つまり「中国からのルートで入って来た作物」ということである。
しかもサツマイモの原産地は中国ではなく、大航海時代に中国に伝わり、それが薩摩藩に伝わったのである。
薩摩藩に伝わったものはサツマイモだけではなく、他の作物ではキャベツ・トマト・ほうれん草・アスパラガス・インゲン豆などが入ってきていた。
また、薩摩藩は琉球(沖縄)を支配下にしていたことと、江戸から遠く離れていたために、幕府の目を盗んで海外とかなり盛んな交易を行なっていたという。
対馬藩(対馬)
対馬からわずか50kmの距離にあるのが、韓国(当時の朝鮮)だ。
対馬と当時の朝鮮とは古くから交流・交易がもたれ、江戸時代には米・生糸・朝鮮人参などが輸入され、長崎の出島をはるかに凌ぐ量の交易が行われていた。
対馬藩・宗氏は、幕府から朝鮮外交と交易の中継ぎを任されていた。
対馬の佐須奈港が朝鮮との窓口(港)だとされてきたが、そこには出島のような交易を行なう場所や建物があったという痕跡はない。
さらに、盛んな交易を行なっていたという記録や資料などの痕跡もほとんどないのである。
では、対馬の人たちはどのようにして朝鮮との交易を行なっていたのだろうか?
江戸時代、許可なく異国に渡った者は死罪という法令もあった中、対馬の人たちだけが朝鮮との交易を許され、朝鮮の釜山には「倭館(わかん)」という場所があった。
そのため、対馬藩の人たちは朝鮮(韓国)の釜山(プサン)に行って交易をすることができたのである。
倭館とは、釜山にあった町の名前で、広さはおよそ10万坪、長崎の出島の約25倍の広さがあり、巨大な日本人町が築かれていたという。
倭館に滞在が許されたのは対馬の男性のみで、約500人がその場所で暮らしていた。
当時の対馬の男性のうち、20人に1人が倭館にいたことになるという。
対馬に出島のような場所が造られなかったのは、日本人が釜山に渡って荷物だけを対馬に持ち帰っていたからなのである。
実は対馬藩は幕府からの指示で、朝鮮や中国など東アジアの情報を探るように命じられていた。
幕府は対馬藩に東アジアの情報収集を行わせ、同時に交易も行っていたのである。
1644年、明王朝の首都・北京に清が攻め込んできた時に、明は日本に援軍の要請を行った。
幕閣たち(幕府)は、明を救うために清と戦うべきかどうか悩んだが、この時に対馬藩から「明が劣勢である」という情報がもたらされた。
このことを知った幕府は、援軍要請を拒否している。
日本は対馬藩からのこの情報により、戦いに巻き込まれずに済んだのである。
その後、新たに中国を支配した清とは、友好的な関係を構築している。
おわりに
江戸時代は「鎖国」の印象が強いが、実際には朝鮮の釜山に「倭館」という出島の逆のような町があり、交易や情報収集は盛んに行われていた。
さらに長崎以外にも、実は北海道の松前、薩摩藩の鹿児島も交易を許されていたのである。
「鎖国」という言葉が、いつか歴史の教科書からなくなる日も来るかもしれない。
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