日本にも渡った九品官人法
中国から日本に渡った文化はいくつもあるが、三国時代に生まれて日本に渡ったものとして有名なのが「九品官人法」である。
劉備と曹操に仕えた陳羣(ちんぐん)によって考案された人材登用システムは、どのようなものだったのだろうか。
今回は、日本にも大きな影響を与えた九品官人法を解説する。
九品官人法とは
まず、九品官人法(きゅうひんかんじんほう)とは何ぞやという話だが、簡単にいうと地方の有力者の推薦(コネ)によって決まっていた人事を、国(魏)の主導で行えるようにしたものである。
曹丕が禅譲を受ける形で魏を建国するとともに、陳羣の提案が採用されて始まった。
各地に国が選んだ人事採用(中正官)を配置して、採用された者は一品官から九品官までランク付けされる。(但し、一品官として評価される事はほとんどなかったようで、事実上二品官が最高だった)
ここでややこしいところは、評価された階級から四階級下のランクから始めて昇進を目指すところだ。
例えば、二品官と評価された者は六品官からスタートとなり、三品官として評価がされた者はどれだけ結果を出しても二品官以上にはなれない。(ゲームの『三國志13』で配下として始めると九品官から一品官まで出世を目指すが、それはゲームの話である)
決して採用した者を疑う訳ではないが、人事のプロとはいえ評価は人間が行うものである。
評価が低かった者は出世の天井が決められてしまい、龐統のようにモチベーションに影響して職務放棄を起こさないか心配になるが、家柄重視のコネ社会だった当時の中国に於いて地元の有力者が家柄に箔を付けるため朝廷に送り込んだ「使えない身内」ではなく、国の力になる優秀な人材を自分達で探せるようにした事に意味があった。
九品官人法のデメリット
コネではなく自分達の目で使える人材を評価出来る九品官人法は魏の更なる国力増強に貢献し、隋の時代に廃止されるまで300年以上続いた。
と、ここまでは歴史書が残したメリットだけ書いて来たが、九品官人法が本当の意味で機能したのは曹丕の存命中だけ(更に細かく分けると司馬懿が実権を握るまで)だった。
先程も書いた通り、システムの良いところだけ見ると有能な人材を実力主義で選んでいるように見えるが、採用する側も人間である。
自分に人事採用の経験はないので分かったような事は言えないが、現代でもすぐに辞める社員や雇ったはいいが全く戦力にならない社員などお互いに不幸な結果になる事が多々あるのは事実であり、自分達の力になってくれる人材を採用するのは本当に難しい。
戦乱続きの後漢末期及び三国時代に於ける人材難は更に深刻で、荊州で人事採用を担っていた龐統が半分でもモノになってくれればいいという程度の期待だったように、本当に優秀な人材を発掘するのは至難の業だった。(現代に名を残す有名人が多いので錯覚しているが、1800年後に名を残している超大物はごく一部である)
そして、人間だからこそ職務より欲望を優先する輩が現れる。
曹丕、更には考案者である陳羣の死後は賄賂が横行するようになり、九品官人法は次第に機能しなくなる。
九品官人法の崩壊と終焉
二代目皇帝である曹叡(そうえい)がこの世を去ると魏では権力争いが発生し、クーデター(正始政変)を起こして曹爽との権力闘争に勝利した司馬懿が実権を握るようになる。
司馬懿は中正官の上に「州大中正」という役職を作るが、州大中正に選ばれるのは司馬懿の息が掛かった人物であり、それは司馬懿の意に沿った人事が行われる(魏の人事権を司馬一族に握らせた)事を意味していた。
採用する側が人間である以上、結局はコネや賄賂(中正官との癒着)に左右されるという九品官人法の欠陥を、魏の臣である夏侯玄はクーデター前から指摘していたが、司馬懿によって権力者の都合のいいシステムへと変えられた九品官人法は名前だけの存在となってしまう。(なお、夏侯玄は司馬懿の死後の反乱未遂に加担した罪で司馬昭の代に処刑されている)
政治家としても優秀だった司馬懿と、後を継いだ司馬昭の存命中は本人達の政治手腕もあって綻びは起きなかったが、司馬炎の時代になって三国統一が果たされると、システムの劣化に拍車が掛かり、本人の実力ではなく家とコネによって人事が決まる世襲制に完全に逆戻りとなってしまった。
三国時代末期の晋に生きた劉毅(りゅうき)は
「上品に寒門なく、下品に勢族なし(上位に無名の家柄の者はなく、下位に名家出身の者はいない)」
と、生まれた家で将来が決まってしまう現状を嘆くが、中国の歴史に残るコネ社会が終わるのは、劉毅の死(285年)から隋の文帝が廃止させる583年まで198年待たなければならなかった。
その後、新たな人事採用システムとして科挙が行われるようになり、清末期の1905年まで続くのだった。
日本への影響
国が自分達で優秀な人材を発掘する事を目的とした九品官人法は早期に失敗となったが、名前としては残り続け、各国に伝来する事になる。
九品官人法とは大きく異なるが、官僚をランク付けするシステムは日本(もっといえば韓国含む東アジア)にも渡り、それが現代にも名が残る「冠位十二階」である。
冠位十二階に関する解説は省くが、三国時代のシステムが教科書に載る有名なシステムのヒントになっていた事は感慨深い。
少々大袈裟な書き方になってしまうが、冠位十二階のヒントとなった九品官人法の生みの親である陳羣は教科書に載るべき大人物であり、劉備の逃した名臣が後世に与えた影響は、三国志ファンが想像するよりも大きなものだった。
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