「バテレンを日本から追放するように」と、1587年に豊臣秀吉から発令されたのが「バテレン追放令」である。
ネットで検索すれば「バテレン追放令」に関する情報は簡単に得られるだろう。しかし書かれている内容は難しく、理解するのは少し困難である。
そこで今回は、かなり分かりやすく「バテレン追放令」について掘り下げていきたい。
目次
バテレンとは?
「バテレン」とは、キリスト教と宣教師の2つの意味がある。
宣教師とは、キリスト教を世界中へ布教する職務者のことである。宣教師の中で最も有名な人物となるのが、歴史の授業で一度は耳にする、フランシスコ・ザビエルであろう。
なおバテレンは、ポルトガル語の「padre」が由来と言われている。
発音は「パーデゥリッ」であるが、日本人の耳に馴染みやすく変化をし「バテレン」となった。
バテレン追放令の内容とは?
1587年に豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」について、簡単に現代語訳する。
「キリスト教を日本で広めないように。神社や寺をキリスト教徒が破壊するのは、絶対に許されない。もし無理矢理に宗教を押し付け寺社仏閣の破壊をすすめるのなら、即刻日本から立ち去れ。そもそも来日の目的は貿易であり、キリスト教を広めるためではない」
なお「バテレン追放令」とは別に、秀吉は大名に向けて「天正十五年六月十八付覚書」も発令している。こちらも同じく分かりやすいように現代語訳で紹介しよう。
「キリスト教を信仰するのは個人の自由である。ただし家臣や庶民達に信仰を押し付けるのは、許されるものではない。もし大名がキリスト教に入信するのなら、公に報せるように」
「伴天連追放令」も「天正十五年六月十八付覚書」も、キリスト教に対して厳しい見方をしている。しかし信仰までは、厳しく制限はされていなかったのである。
禁止をしているのは、布教・強制信仰・寺社仏閣の破壊ぐらいである。
豊臣秀吉はバテレンを嫌っていたのか?
当初、秀吉はバテレンを嫌ってはおらず、逆に大歓迎の姿勢をとっていた。宣教師の証言からも秀吉のバテレン歓迎っぷりが見て取れる。
宣教師は、布教と教会建設の許可を得るために大坂城へやって来た。秀吉は2つ返事でOKを出し、宣教師に自由の保障を付けたほどである。
実は「バテレン追放令」が出た後も、特に厳しく締め付けるようなことはしなかった。
追放令が出ると宣教師たちは九州へ行ったが、厳しい取り調べもなく布教活動に明け暮れたため、信者の数は増えていったのである。
なぜ豊臣秀吉はバテレンを歓迎していたのか?
秀吉がバテレンを歓迎した1番の理由は、貿易である。
実際に「自由貿易令」を発令し、許可を得れば国籍・品物関係なく自由に商売をすることができた。
さらに貿易の安全を確保するために、秀吉は「海賊停止令」を発令した。海賊行為だけではなく、海賊の疑いがある人物も厳しく取り締まっていたのである。
貿易に力を入れていたのは、財力と戦力アップを目論んでいたからである。
中でも秀吉が強く欲していたのはポルトガル船であった。最先端技術が搭載されたポルトガル船が入手できれば、豊臣の勢力は絶対的なものになる。
豊臣秀吉はなぜバテレンを処刑したのか?
ところが、後に秀吉は宣教師やキリスト教信者を長崎で処刑した。
犠牲となったのは、外国人6人と日本人20人。中には幼い子供の姿もあった。
手のひら返しの要因となったのは、日本侵略の疑いである。
実際に、日本に滞在中のイエスズ会からフィリピン滞在の宣教師に向けて「戦艦を送るように」と要請も出ている。なお要望は受け入れられなかったため、実現とはならなかった。
しかしこれはそもそも実現していないばかりか、秀吉の元に連絡がきた等の事実は確認されていない。
豊臣秀吉が壮大なる手のひら返しをした理由とは?
宣教師の日本侵略が表沙汰になったのは、1596年に発生した「サン=フェリペ号事件」と言われている。
宣教師達を乗せたサン=フェリペ号は、フィリピンのマニラを出港した。ところが台風に巻き込まれて遭難し、命からがら四国土佐沖に流れ着いた。
遭難者達の処遇は、五奉行の1人である増田長盛が担当することになった。そして調査を進めると、宣教師達が日本侵略を企んでいたことが判明したのである。
増田長盛の報せを聞いた秀吉は大激怒した。
京都や大阪で布教活動をしていた宣教師達は即逮捕され、彼らは長崎送り込まれてそのまま処刑となったのである。
後に「日本二十六聖人」と呼ばれ、現代でも手厚い信仰を受けている。
宣教師は”本当に”日本を侵略しようとしていたのか?
処刑されてしまった宣教師達が、本当に日本侵略を検討していたかどうかは、実際のところは不明である。
増田長盛が誇大解釈をし、秀吉に間違った形で伝えられたという説も根強い。つまり壮大な勘違いだった恐れもあるのだ。
しかし勘違いだったと断定できる証拠もない。現に宣教師が多く集まった長崎では、武装化が進められていたという事実がある。
長崎に滞在していたイエスズ会の勢力も強く、大名をも巻き込むほどであった。
日本侵略計画の真偽はご想像に任せるしか他ないだろう。ただ長崎の状況を考えれば、豊臣側と宣教師側の衝突は必然だったのかもしれない。
江戸時代に発令した禁教令について
江戸時代に発令された「禁教令」についても触れておきたい。
内容は、1587年の発令の「バテレン追放令」とほとんど同じであるが「バテレン追放令」と違う点は、厳しさにある。
1612年4月21日、幕府は江戸・京都・駿府にある教会を破壊し、布教禁止令も発令した。翌1613年には、日本各地でキリスト教徒が次々と処刑されたのである。
1614年になると禁教令は全国に拡大した。宣教師達は日本にいられなくなり、キリスト教は完全に日本から締め出されてしまったのである。
再び日本での布教が許されるようになったのは、261年後の1873年である。
参考文献 :
「教会領長崎 イエスズ会と日本」安野眞幸 講談社選書メチエ
「なぜ秀吉はバテレンを追放したのか」三浦小太郎 ハート出版
この記事へのコメントはありません。