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大西洋を縦横無尽に旅した航海士時代
15世紀後半、ヨーロッパ人たちにはまだ知られていなかったアメリカ大陸を最初に発見したとされる、イタリアの航海士であり探検家でもあるクリストファー・コロンブス。
当時のヨーロッパでは、「地球球体説」が一般人にも広く信じられるようになっており、日本では室町幕府8代将軍足利義政が実権を握っていた時代である。
コロンブスが航海に興味を持ったのは10代後半。
父親の家業を手伝い、ワインや織物の売買のために地中海を航海したのが始まりであった。
20代後半には砂糖の買い付けのため、ポルトガルのリスボンから970km、アフリカ大陸のモロッコから西へ650kmの大西洋上に浮かぶ小さな島、マデイラ島へと遠い航海に出向いたこともあった。
航海術はもちろん、ラテン語やスペイン語などの語学、地理や天文学など幅広く学問に精通するようになったコロンブスはその多才さを買われ、
ポルトガルの貴族であり探検家でもあったディオゴ・デ・アザンプージャがアフリカ・ギニアを南下し、要塞(現在のガーナにあるエルミナ城)を建築する際の航海にも加わった。
他にもアイスランドへも渡っており、地中海や大西洋を縦横無尽に航海している。
乳香取引のために商船隊として航海中、敵国であったフランス艦隊による砲撃で船が沈没、オールにつかまって命からがらポルトガルのリスボンまで泳ぎ着いたという過酷な体験もしている。
41歳で新大陸発見という偉業を成し遂げ、航海に対して純粋に向き合っていたように見えるコロンブスだが、実は青年期から金と権力、地位や名声に対する異常なまでの貪欲さと執着を持っていたという一面もあった。
黄金郷ジパングに憧れ、西方航路によるアジア到達を確信
コロンブスは23歳の時、後の人生の行方を決定づける重要な人物と交流を持つようになる。
2世紀にエジプトで活躍し「地球球体説」を提唱した天文学者プトレマイオスと、13世紀に『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロを崇拝し、黄金郷ジパングに行くことを夢見ていたイタリアの医師であり天文学者、パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリである。
トスカネッリは天文学だけでなく地理学や地図作成にも長けており、とくに航海術と天文学の知識を組み合わせた自作の地図「トスカネッリ図」は、コロンブスに大きな衝撃を与えた。
円盤状に描かれていた「トスカネッリ図」は、地球の東方にはアジアが存在し、大西洋を西に横断すれば新たな貿易ルートが開けるという示唆とルートが描かれていたのである。
「トスカネッリ図」は、コロンブスに西方航路でのインド到達の航海計画が実現可能であるという自信と冒険心もたらした。
コロンブスもまたマルコ・ポーロの『東方見聞録』を愛読しており、「黄金の国・ジパング」に降り立ち、大量の黄金を手にいれるという2人の夢が大いに膨らんだのである。
トスカネッリはコロンブスに多大なる天文学の知識と航法を提供し、コロンブスの航海に貢献したが、同時に大きな誤ちも犯していた。
当時のヨーロッパ人はアメリカ大陸の存在を知らなかったため、「大西洋の向こうにはアジアが広がっている」という思い込み。
さらに、地球の直径を実際よりも小さく見積もっていたため、「大西洋におけるヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスが試算していたものよりも短い」と確信していたことが、コロンブスが後にアメリカ大陸に上陸した際、その地をインド(アジア)と誤解する原因になってしまったのである。
ポルトガル王に要請した欲望まみれの貿易独占権と植民地支配権
コロンブスは33際の時、ポルトガル王のジョアン2世にアジアへの西方航路開拓の計画案を提出し、資金援助を願い出る。
すでに東回りでインド航路を発見していたジョアン2世だったが、コロンブスの「西方航路・開拓計画」があまりに斬新であったため興味を持つ。
ところが、ジョアン2世の好感触から図に乗ったコロンブスは航路開拓の援助資金だけでなく、成功報酬や貿易独占権、領土や植民地支配権、地位や名誉など、法外な条件を要求しだしたのである。
コロンブスがポルトガル王に要請した西方航路援助の条件
<成功報酬10%>
・航路開拓によってもたらされる、成功報酬収益の10%<船舶と船員の提供>
・長旅に耐えうる頑丈な船舶の提供
・航海に必要な船員の採用
・難解な航海のための船員への訓練への援助<航海に必要な資金と物品>
・航海のための費用、装備、食料、物資
・船員の給与<貿易独占権>
・新航路発見によって得られる貿易ルートの独占権
・発見した領土や交易品の利益の独占権<領土と植民地支配の権利>
・到達した新大陸の領土と植民地の支配権<栄誉と名声の保証>
・航海の成功によって得られる栄誉と名声
・将来の地位や称号、歴史的な記録の功績の保証
これらは援助の範疇を大きく超え、半分はコロンブスの個人的な金と権力、地位と名誉への欲望であり、ジョアン2世にとっては援助の条件としては二次的な要素であると受け止められ、王室の数学委員会から断られてしまう。
航海士としてすでに名を馳せていたコロンブスだったが、その野心の大きさから、ポルトガルの植民地帝国の拡大と影響力の強化を狙っていたとも考えられている。
スペイン王室から引き出した新大陸支配権「サンタ・フェ契約」
ポルトガル王室から援助を断られたコロンブスは、失意のうちにスペインに移住する。
修道院の神父を通して数々の貴族たちとの人脈を広げ、ついに35歳の時、初めてスペイン王室の女王、イザベル1世への謁見が許されることになる。
コロンブスはスペイン女王に対しても、ポルトガル王への要求と同じように規格外の援助と権利の要請をする。
スペイン王室の委員会の審議にかけられ、法外な援助と権利の要請への懸念はもちろん、「西方航路のアジアまでの距離は、果たして合っているのか」という根本的な疑問も突きつけられた。
一方、コロンブスの計画に好意的だったイザベル1世は、スペイン王室に謁見する時に必要な宿泊費を援助するなど一部の金銭的援助を行っている。
スペイン王室の委員会が一進一退の審議を繰り返しているうちに5年の月日が流れていた。
コロンブスが最初に西方航路での黄金の国・ジパングを夢見た時から17年、具体的な計画を立て始めてからは7年が経っていた。
そして、1492年4月17日、コロンブス40歳の時、スペイン王室とコロンブスの間で、航海協定「サンタ・フェ契約」が締結されたのだった。
コロンブスがスペイン王室と交わした「サンタ・フェ契約」の内容
<航海目的と統治領土における地位の保証>
・新航路を発見し、アジアへの交易を確立する
・成功を収めた場合、航海の指揮権をコロンブスが保持し、発見した土地の終身統治者となり、その地位は相続される
・各地の統治者は、3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる
・統治領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。<船舶と船員、資金と物品の提供>
・3隻の頑丈な船舶とその装備
・航海のための費用、装備、食料、物資の提供
・航海に必要な船員を採用し、彼らに報酬を支払う
・難解な航海のための船員への訓練の援助
・成功時に得られる財産の一部を船員たちと共有する<利益の分配と税制>
・航海から得られる利益の一部をイサベル1世とコロンブスとの間で適切に分け合う
・航海から得られる富や財産に対する税制への合意
・航海の成功後に得られる富や貿易品に対して、一定の税金を徴収する権利
・統治領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする<栄誉と名誉の保証>
・航海成功後、スペイン王国からの名誉称号や地位の授与
・コロンブスが今後行う航海において、費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする
ポルトガル王に要請した援助条件とほぼ変わらない、コロンブスの植民地支配の野望が垣間見える部分も残っているが、スペイン王室としてはお互いの利益と目的、公平性をバランスよく慎重に熟慮した結果の契約内容となった。
「成功時に得られる財産の一部を船員と共有する」という契約内容は、船員たちのモチベーションを高め、航海の成功に向けた団結力を醸成することを期待しての協定といえるだろう。
イサベル1世は、それだけコロンブスの西方航路計画への信頼と期待を持っていたのである。
実際にサンタ・フェ契約の締結は、大西洋横断航海の歴史において重要な節目となり、コロンブスの大航海への支援と成功の一歩となった。
アメリカ大陸の間にあるのに「西インド諸島」という地名の秘密
こうして長年の夢を叶えたコロンブスは、1492年8月3日、アジアのインドを目指して、帆船サンタ・マリア号を旗艦とする3隻でスペイン南部のパロス港を出航した。
72日間の過酷な航海の末、水夫がある陸地を発見し、翌日1492年10月12日、コロンブスもそこに上陸した。
コロンブスはこの地を、アジア・インドの一部の島と誤解し、「サン・サルバドル島」、聖なる救済者という意味の名前をつけた。
このニュースで当時のヨーロッパ人たちに激震が走り、コロンブスの西方航路でのアジア(インド)上陸説は可能であるという希望を与えた。
ヨーロッパ諸国による大航海時代の始まりとなり、後にアメリカ大陸とヨーロッパとの間の文化的、経済的な交流を促進することになった。
しかし実際には、コロンブスが発見した「サン・サルバドル島」は、アジアでもアメリカ大陸でもなく、大西洋とカリブ海の間に位置する、当時の先住民たちからは「グアナハニ島」と呼ばれていた、現在のバハマとキューバ近くにある小さな島であった。
(1929年まで、国際的には「ワトリング島」と表記していた)
その後もコロンブスは1504年までの12年間で4度の航海を行い、カリブ海域のキューバやバハマ、ハイチなどの島々や、中央アメリカのパナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラスなどの地域を探索している。
コロンブスはこれらの地をアジアの島々と捉え、生涯インドと信じて疑わなかったという。
そのため、カリブ海域のバハマ諸島一帯は、実際のインドから遠距離にあるにも関わらず「西インド諸島」と呼ばれ、先住民たちは「インディオ」と呼ばれるようになったのである。
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは、彼の「金・権力・地位・名声」への異常なまでの欲望の執着と執念がもたらした副産物といえるだろう。
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