祭神の八幡大神は第15代の応神天皇
「八幡さま」をお祀りする神社は、全国で約46,000社といわれ、これは日本で一番多い数だ。
祭神の八幡大神(八幡さま)とは、ヤマト国家の天皇の中で、実在が有力視される第15代応神天皇のこと。
そして、その母である神功皇后と比売大神(ひめおおかみ)の三神を合わせて、八幡三神として祀る神社が多い。
応神天皇は、4世紀後半の在位と考えられる。
第14代仲哀天皇の第4皇子で、母は前述の神功皇后。名は「ほむたのすめらみこと」(『日本書紀』の和風諡号)、「ほむだわけのみこと」(『古事記』)という。
天皇の皇后は、第12代景行天皇の孫王・品陀真若王(ほんだまわりのおう)の皇女・仲姫命(なかつひめのみこと)で、応神天皇との間に仁徳天皇をもうけた。
八幡三神の内の比売大神は、この仲姫命に充てられる。
応神天皇の時代には、朝鮮半島より多くの渡来人が来朝した。こうした渡来人として、弓月君(ゆづきのきみ)・王仁(わに)・阿知使主(あちのおみ)といった人物が知られている。
阿知使主は東漢氏、弓月君は秦氏の祖となった。
東漢氏は、飛鳥の檜前を本拠とし、土木建築・織物の技術を伝えたが、一方で軍事力にも秀で、武器の作成などにも携わった。秦氏は、蚕・絹などによる織物、砂鉄や銅などの採鉱および精錬の技術で知られるが、土木技術も得意とした。
応神天皇の時代には、秦氏により道路やため池などが作られ、大和・河内一帯の開拓も大きく前進したと考えられている。また王仁は、儒教と漢字を伝えたと『古事記』に記される。
応神天皇は、古代史上において一時代を画した天皇として、次代の倭の五王へとヤマト政権を引継いだ大王ともいえる。
そんな応神天皇は後に男系天皇が断絶した仁徳天皇の皇統と、現在まで続くと考えられる継体天皇の皇統の共通の男系祖先に位置付けられる。
これは、応神天皇の血を引く手白香皇女(たしらかのひめみこ)を、傍系の男大迹王(おおどおう・後の継体天皇で応神天皇5世孫とされる)の皇后とすることで、仁徳皇統と継体皇統が繋がり、そのために応神天皇は、皇祖神として奉られることになった。
全国4万社以上の八幡宮の総本社・宇佐神宮
奈良時代に神仏習合が盛んになると、応神天皇は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、各地の八幡宮に八幡大神として祀られた。奈良時代には皇室からも篤く崇敬され、八幡宮の総本社である大分県宇佐市の宇佐神宮は、皇祖神を祀る伊勢神宮に次ぐ第2の宗廟として篤く崇敬された。
宇佐神宮の社伝によると、八幡大神は571年に初めて宇佐の地に顕われたされる。そして、752年に聖武天皇が勅願により現在の地に社殿を造営したのをその起源とする。
宇佐神宮は、奈良東大寺大仏建立や道鏡事件における勅使・和気清麻呂への神託など国家の大事に際し、度々その御神威を顕わし、ますます朝廷からの崇敬を集めた。
平安時代以降は武神として武家の崇敬を集める
そして、平安時代後期以降は、清和源氏や桓武平氏など天皇家の血を引く武家が武功を立てる際に、八幡さまは、その氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬された。
特に、清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神を氏神とし、全国各地に八幡大神を勧請した。源義家は、京都府八幡市の石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名である。
義家は、父源頼義に従った東北遠征に際しても父とともに、関東に多くの八幡宮を創建した。
その子孫である源頼朝は、頼義が鎌倉に石清水八幡宮から勧請した鶴岡八幡宮を現在地に遷座している。
「八幡様」のご利益は、武神らしい「必勝祈願」の他、神功皇后にあやかり「安産祈願」。
そして、比売大神は、学問・芸術の神として「芸能上達」に御神徳があるとされる。
ぜひお参りして、御神徳を結んでいただきたい。
※参考文献:
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』文春新書、2019年5月
高野晃彰・招福探求巡拝の会著『日本全国一の宮巡拝パーフェクトガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2023年4月
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