室町幕府滅亡後に茶人として名を成す
歴史の醍醐味は、謎解きの面白さといっても決して過言ではないだろう。特に、歴史の表面に現れない人物や出来事を、ミステリーを解き明かすかのように、解明を試みるのは歴史の大きな楽しみだ。
今回は安土桃山時代から江戸時代初めに、京都に実在した廣野了頓(ひろのりょうとん)という茶人を紹介したい。
廣野了頓は、生没年をはじめ、その本名など多くのことが不明だ。
ただ彼の足跡は、今も京都の中心地にある「了頓図子(りょうとんずし)」という細い小路に残されている。
鴨川に架かる三条大橋から三条通を西に進み、烏丸通を越えて2本目を左に入るとそこが「了頓図子」だ。正式な道の名称は、衣棚通で、三条通から六角通の間の約100mが「了頓図子」と呼ばれる。
廣野家は、足利将軍家の代々の従臣とされる。第12代足利義晴・第13代義輝の時代に、現在の「了頓図子」周辺を領地として与えられた。
義晴が将軍になったのが1522年だから、廣野家は、1573年の室町幕府の滅亡までの約50年は確実に将軍家に随従したと思われる。
しかし、この辺りに関しても多くのことは謎である。江戸前期の地誌『雍州府志』には
「室町幕府第13代征夷大将軍・義輝の頃、足利家代々の従臣・廣野家はこの地を領有していた。」
「その末裔である廣野了頓は剃髪し、この地に邸宅を構え茶道を広めた。」
とある。
とすると、了頓は足利義昭が京都を追われたことで幕臣から退き、了頓と号したと考えられるのが普通だろう。
しかし、了頓は武士をやめ、出家して茶人となったことで、歴史にその名を残すことになった。
秀吉・家康の天下人から知行を受ける
了頓の屋敷は、六角通に面して南に表門があり、北には裏門があった。南の門を将軍御成門と称したという。屋敷内には南北の小路があり、了頓の意向により、南の表門から北の裏門まで、夜間を除き一般の通り抜けを許していた。屋敷内の小路と表門は、明治維新前まで存在していたという。
『雍州府志』は剃髪後の了頓について
「常に囲炉裏に釜を置いて、客人が来るとお茶と菓子をふるまった。」
と記す。
そして、天下統一を果たす直前の豊臣秀吉が急に訪れ茶を請うと、了頓は嫌な顔をせずに釜の湯で茶を点てた。秀吉はこうした了頓の人柄に感心して、280石の知行を与えたという。
また、山科言経(やましなときつね)の日記『言経卿記』には、1594年5月11日に、徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、その折は言経・古田織部も同席したことを記している。
1594年といえば、文禄の役(朝鮮出兵)の真っ只中だが、家康は京都の茶屋四郎次郎の屋敷に滞在していたのだろう。了頓はその後、江戸幕府より400石の知行を受けている。
秀吉・家康が了頓邸を訪問した記録を表す文献は少ない。しかし、おそらくは、両人とも入洛の時、折あらば了頓邸で遊び、その茶で寛いでいたことは、容易に想像できるのである。
南の門を将軍御成門と称したのは、幾度となく家康が来訪したことを物語るのではないだろうか。
了頓は財を持った京都町衆の一人か?
豊臣秀吉と了頓を結びつけたのは、新町三条南に屋敷を構える伊藤道光(いとうどうみつ)だった。
道光は、米を扱う豪商といわれ、秀吉は入京の折は道光宅を定宿にしていた。道光は了頓と茶の湯で結ばれた友人であり、その縁で秀吉を紹介したという。
道光の屋敷があった新町三条は、三条町衆と呼ばれる人々が自治を行っていた地域だ。町衆は室町時代以降、京都はもとより堺・博多などで自治を行った裕福な町人を指す。しかし、京都の町衆は、商工業者だけでなく、公家・武家の家臣も加わり自治集団を形成していた。
1762年に刊行した地誌『京町鑑』には「天正年中 了頓といふ富商有て」と、了頓は富商すなわち財力を持った商人であると記されている。
どうやら了頓は、武家でありながら商人でもあったと思われる。
これもまた推測の域を出ないが、徳川家康が山科言経・古田織部らと了頓を訪ねた時、了頓は三条町衆の中心的な人物であったのかもしれない。
廣野家は、京都の武家商人として、財力で凋落著しい室町幕府を扶けていた可能性もある。
そう考えると、秀吉・家康という天下人が了頓と親交を結び、知行を与えた理由が見えてくるのだ。
人々の記憶の中に今も生き続ける了頓
『京町鑑』によると、了頓の屋敷について「此家今はなし」と記されている。
ということは、江戸開府から160年後には、了頓の邸宅はなかったことになる。
しかし、屋敷内の小路および将軍御成門は、明治維新前まで存在していたといわれるように、了頓の末裔が、了頓の旧跡を幕末まで残したのであろう。
そして、了頓が生きた時代から400年以上の年月を経た現在でも、人々の記憶にはその存在が色濃く残り、今も「了頓図子」として存在している。了頓は屋敷の中に湧き出す井戸の水を用いて、茶をたてていたという。
以前、この「了頓の井戸」の存在が気になって「了頓図子」の一画にあった料理店(今は他所に移転)で、その話を板前さんとした時に「実は店の奥庭にあった井戸が了頓が使ったと伝えられているんです。」という返事が帰ってきた。
その井戸は既に埋めたれていたが、灯篭の脇に大切に残されていた。
そう、ここ「了頓図子」には、了頓はもとより、豊臣秀吉・徳川家康の記憶が今も人々の間にしっかりと生き続けているのだ。
読者の皆様も京都に行かれた際は、ぜひ「了頓図子」を訪れていただきたい。
※参考文献:
京あゆみ研究会(高野晃彰)著『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2022年2月
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