時は天正10年(1582年)3月11日。甲斐天目山(山梨県甲州市)で、武田勝頼(演:眞栄田郷敦)や嫡男の武田信勝(のぶかつ)ら主従40余名が自害。
ここに甲斐源氏の名門、武田家は滅亡したのでした。
勝頼の滅亡は織田信長(演:岡田准一)らに惨敗を喫した長篠の戦い(天正3・1575年5月21日)が主原因と見られがちですが、確かに痛手は受けたものの尚も強大な勢力を保ち続けています。
むしろ天正9年(1581年)時点では、敵対していた北条方の有力家臣・笠原政晴(かさはら まさはる。笠原政尭)が武田に寝返るなど、まだまだ盛り返す見込みがあったようです。
(たとえ主君が憎くても、泥舟には乗りたくありませんからね)
それが決定的な崩壊を迎えたのは、年が明けて天正10年(1582年)1月、武田の一門衆であった木曾義昌(きそ よしまさ)の離反が始まりでした。
続く2月には同じく一門衆の穴山梅雪(演:田辺誠一)が寝返り、いよいよ3月にはやはり一門衆の小山田信茂(おやまだ のぶしげ)が勝頼の支援を拒絶したのです。
他にも多くの者たちが勝頼を裏切りましたが、いかに戦国乱世とは言え一門衆が主君を見限る例はそこまで多くありません。
今回は武田勝頼を滅ぼした木曾義昌・穴山梅雪・小山田信茂それぞれの末路をたどってみたいと思います。
木曾義昌
天文9年(1540年)生~文禄4年(1595年)2月13日没
信濃源氏の英雄として源平合戦で活躍した木曾義仲(きそ よしなか)の末裔を自称しますが、実態は不明。子孫が藤原氏(北家秀郷流)を称しているのも気になるところです。
武田信玄(演:阿部寛)の三女・真理姫(まりひめ。真竜院)をめとって武田の一門衆に仲間入りしたと言いますが、同年代の史料による裏づけは確かでないとか。
信玄の死後、重税に不満を募らせ、武田家の行く末を案じていた義昌は信長の調略によって勝頼を裏切りました。
武田家の滅亡後は徳川家康(演:松本潤)と組んで大混乱(天正壬午の乱)を生き延びたものの、後に家康が羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)と対立するとあっさり秀吉に寝返ります。
しかし秀吉が家康と和睦すると「裏切り者は要らぬ」とばかり義昌を家康の配下につけたのでした(性格悪いですね)。
家康のもとで義昌が冷遇されたのは言うまでもなく、やがて淋しく世を去ったのでした(慶長元・1596年7月13日没説もあり)。
穴山梅雪(穴山信君)
天文10年(1541年)生~天正10年(1582年)6月2日没
信玄にとっては甥(姉の子)であり、また娘婿という極めて親密な関係。そもそも穴山一族が武田家の一門衆でした。
文武にすぐれ、山県昌景(演:橋本さとし)の後任として駿河江尻城代を務め、駿河国を抑えたと言います。
信玄の死後も勝頼に重用されていましたが、やがて長坂光堅(ながさか こうけん。長坂釣閑斎)・跡部勝資(あとべ かつすけ)らにお株を奪われ、次第に冷遇されるようになってしまいました。
これを怨んだ梅雪は信長と内通、そして天正10年(1582年)2月に勝頼と決別、徳川家康を通じて織田方へ降伏したのです。
これによって駿河は完全に失陥。武田家滅亡後はしばらく家康と行動を共にしていましたが、本能寺の変で信長が横死を遂げると、混乱の中で家康とはぐれてしまいました。
そして落ち武者狩りで命を落とした(自害説と殺害説あり)ということです。
小山田信茂
天文8年(1539年)?生~天正10年(1582年)3月24日没
郡内地方の国衆出身で、信玄の従甥(いとこおい)に当たります。武田の猛将として数々の戦場をくぐり抜け、多くの武功を重ねました。
文武両道を兼ね備えていたことから、信玄のブレーン集団「弓矢の御談合七人衆」に加えられたと言います。
春日虎綱(かすが とらつな。高坂昌信)・土屋昌続(つちや まさつぐ)・内藤昌秀(ないとう まさひで)・馬場信春(ばば のぶはる)・原昌胤(はら まさたね)・山県昌景そして小山田信茂の七人です。
勝頼時代になっても活躍し、あの長篠合戦でも最前線で戦いながらも生き抜きました。
しかし天正10年(1582年)になっていよいよ織田の大軍が甲斐国まで乱入してくると、本拠地の新府(山梨県韮崎市)を捨てて自分を頼って来た勝頼を拒絶。
これで生き延びる希望を失った勝頼主従は、天目山で自害してしまいます。
武田を裏切って織田に取り入ろうとした信茂でしたが、信長はこれを赦さず「武田家に対する不忠」を理由に信茂を処刑したのでした。
終わりに
以上、武田家の滅亡を決定づけた三人を紹介してきました。いずれも裏切り者に相応しく、実に哀れな最期です。
言うまでもなく、組織というのは崩壊する時は崩壊するもので、決して彼らだけのせいではなかったでしょう。
それと同じように勝頼だけのせいではなかったはずです。
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
組織は人によって栄えもすれば滅びもする。後に家康が武田の遺臣を多く抱え込んだのは、その精強さはもちろんのこと、勝頼の教訓を肝に銘じる意味もあったのでしょうか。
※参考文献:瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究 政治力の差が明暗を分けた』PHP文庫、2014年6月
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