今回の記事では、毛沢東の妻である江青の人生について紹介します。
1914年3月19日、江青は山東省諸城県に生まれました。ちょうど第一次世界大戦が始まった年になります。
学生時代、彼女は共産主義に共鳴。1933年に中国共産党に入党しました。このとき17歳です。
江青は女優としても活躍し、多くの男性と激しい交友関係を繰り返しています。
毛沢東と不倫関係の末、結婚
共産党員でありながら女優という特異な経歴を持つ江青は、毛沢東との出会いによって人生の大きな転機を迎えます。
江青が25歳のときに毛沢東(45歳)と出会い、交際が始まりました。当時の毛沢東は賀子珍(3番目の夫人)とすでに結婚しており、江青とは不倫関係でした。
毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めましたが、毛沢東の部下である周恩来らは猛反対しました。
結婚する条件として「江青を政治の表舞台に立たせない」という約束を、毛沢東と部下たちは交わします。
そして日中戦争の真っ最中である1939年、江青は毛沢東と結婚しました。
約束は果たされなかった…
1949年、毛沢東は中華人民共和国を建国します。そして江青はファーストレディーとして、毛沢東の横を堂々と歩いていました。部下との約束は反故にされたのです。
さらに江青は同じ共産主義を掲げるルーマニアの独裁者、チャウシェスク夫妻とも親交を深めました。夫妻に対して、政治的なアドバイスも行っています。
チャウシェスクの妻・エレナに関しては以前の記事「銃殺された独裁者チャウシェスクの妻・エレナ 【愚かな人口増加政策が招いたチャウシェスクの落とし子たち】」を参照していただけると、幸いです。
江青は嫉妬深い性格だったと言われており、もともと女優だった彼女が演劇界を深く憎んでいたことは明らかでした。
その嫉妬深さから、自分より評価の高かった女優たちを次々と拘束し、殺害しました。
その結果、中国の演劇界は絶滅寸前に追い込まれています。
「大躍進」の大失敗によって、トップを降りる毛沢東
1958年、毛沢東は「大躍進」政策を開始しました。国民の生活水準を向上させ、中華人民共和国を世界の主要国家にすることを目標として掲げたのです。
「大躍進」政策では「人民公社」による農業生産の向上と、鋼鉄生産の増産による重工業の発展が掲げられました。急速な工業化と農業の集団化を目指しましたが、逆に経済は混乱し、大失敗に終わります。
大規模な飢餓を引き起こし、数千万人が餓死する人災となりました。諸説ありますが、3000万人から5000万人が死亡したといわれています。
1959年4月、毛沢東は「大躍進」の責任を取って、国家主席を劉少奇に譲ります。劉少奇は鄧小平らと協力し、社会主義経済の一部を改めました。
生産請負制を認めるなど、資本主義の要素を取り入れた「経済調整」政策を採用したのです。
「プロレタリア文化大革命(文革)」に加担する江青
劉少奇の改革が功を奏して、経済が順調に回復するなか、毛沢東は再び権力を獲得するため動き出します。
1966年、毛沢東は「(プロレタリア)文化大革命(文革)」を発動。江青は「四人組」の1人として、毛沢東と共に「文化大革命」を主導しています。
文化大革命は、現体制や大人に不満を持つ若者を利用した運動です。「紅衛兵」として組織された学生が「造反有理(反抗するには道理がある)」と叫び、劉少奇体制に対する反対運動を起こしました。
この運動は多くの若者を取り込み、また毛沢東がインフルエンサー的役割を果たしたため、次第に過激化・先鋭化していきます。
若者たちは共産党や政権の幹部を襲撃するようになり、過激化した運動に抑えることができなくなった劉少奇は失脚に追い込まれます。
毛沢東と文革派は再び権力を奪い返したのです。
目的を達成した毛沢東にとって紅衛兵はもう用済みです。教育も受けていない彼らは農村に強制移住させられ、過酷な労働によって命を落としました。
「大躍進」と「文化大革命」の犠牲者は…
この文化大革命は1970年代前半まで続きます。一連の運動によって多くの命が犠牲になりました。一説には1000万人から2000万人とされています。
「大躍進」よりも人数は少ないですが、犠牲者の大半は大学教授や教師、官僚などのエリート層になります。未来の中国を担う人材であり、社会的なダメージは計り知れないものでした。
1976年、毛沢東はついに死亡します。後ろ盾を失った江青は、逮捕・投獄されました。
毛沢東が主導した「大躍進」「文化大革命」によって、のべ4000万人〜7000万人の命が失われたとされています。彼の政治に積極的に関わった江青は、世界でもっとも人を殺した悪女だと解釈できるかもしれません。
1984年に仮釈放された江青ですが、1991年、自ら命を絶ちました。77歳でした。
その嫉妬深い性格が、逆に自分自身を滅ぼしてしまったのかもしれません。
終わりに
現時点から振り返ると「大躍進」と「文化大革命」は、歴史上もっとも愚かな出来事であると言っていいでしょう。
しかし冷戦時代だった当時は、共産主義に対してまだ希望があった時代でした。日本の左派系メディアも「文化大革命」を好意的に伝えています。日本の東大闘争(学生運動)においても、バリケード封鎖された東大の門に「造反有理」のスローガンが掲げられています。
パリの「五月革命」やベトナム戦争の反戦運動など、毛沢東の思想は世界中の学生に大きな影響を与えていたのです。
中国共産党は「大躍進」と「文化大革命」の悲劇を伝えていないため、中国国内では中国史をまったく知らない若者が増えています。
日本に対して「歴史を直視せよ」と求める中国政府ですか、自国の「負の歴史」を直視できていないのです。
参考文献:池上彰『そうだったのか! 現代史』集英社、2007年3月
この記事へのコメントはありません。