時代劇や時代小説でおなじみの切腹。
切腹にはさまざまな種類があり、腹を十字に切り裂き、内臓をつかみ出す「無念腹」というおぞましい切腹の方法もありました。
今回は武士の矜持と言われる切腹の歴史や介錯、切腹にまつわるエピソードをご紹介します。
切腹の歴史
武士の切腹は、源平の合戦の頃から散見されます。鎌倉時代・承久の乱(1221年)の頃から本格的に行われるようになり、鎌倉時代末期には切腹が武士の自害の方法として定着しました。
室町時代には主君のあとを追う殉死が始まり、戦国時代になると戦場で敗北した時や降伏の際に切腹が行われるようになり、特に戦いに敗れた城主の切腹が多く見られます。
この時期はまだ切腹の作法は確立しておらず、敵が迫る中、屋敷に火をかけて時間をかけずに切腹したり、介錯もしたりしなかったりと、状況に合わせて行われていたようです。
江戸時代になると身分制度が確立し、刑罰も士分と庶民とで分けられ、武士の死刑には斬罪(打ち首)と切腹が適用されます。痛みに堪える強靭な精神力と覚悟を必要とする切腹は勇猛果敢の証であり、武士のみに許された行為でした。
切腹の流れ
刑罰としての切腹は時代とともに儀式化が進み、作法が確立されていきます。身分によって段取りや様式を変えるなど、細かなルールが決められました。
武士が切腹するときの畳の敷き方である「切腹の間」は、現在でも縁起の悪い畳の敷き方とされています。
切腹を申し受けると切腹人は沐浴し、白無地の小袖を左前に着用し浅葱色の裃をつけます。髷はもとどりを切るか、介錯しやすいように高めに結い、案内人に従って切腹場所へと向かいます。
西方浄土へ行けるように西を向いて着座し、後ろには屏風が置かれ、向かい側には検視役が座りました。
末期の盃を受けると、三宝(三方)にのった短刀が目の前に置かれます。上半身裸になり短刀を手にしたら、背後に控えた介錯人に挨拶をし、大きく息を吸って腹に力を入れます。腹に刀を突き立て、左から右へと一文字に引き裂くと、介錯人が皮一枚を残して一気に首を斬る。これが切腹のおおまかな流れです。
腹の切り方には、腹を一文字に切る「一文字腹」の他に、一文字に切った後、さらにみぞおちからへその下まで切り下げる「十文字腹」もありました。
意にそぐわない切腹の「無念腹」は、「十文字腹」で腹を切り内臓をわざと引きずり出して怒りや抗議の意思を示す方法です。柴田勝家や織田信孝は、「無念腹」で壮絶な最期を遂げました。
また、「三文字切腹」は、三の字を描くように横に3回腹を切り裂くもので、常人にはなしえない切腹と言われていました。幕末の志士・武市半平太は、見事「三文字切腹」で果てたと伝えられています。
介錯は苦痛を取り除き、立派な最期を遂げるための手段
腹を切っただけではなかなか死ねず、その苦痛は想像を絶するもので、醜態をさらしてしまうこともあり、腹を切った後に喉や胸を突いて絶命することもありました。
しかし、自身でとどめを刺すのは相当な気力を要し、自分の力だけで切腹をなしとげることはかなり難しいことだったようです。
そこで、切腹人の死を早めて苦痛から救うため、介錯が行われるようになりました。
割腹直後、大刀で切腹人の首を切断し、首の皮一枚残して即死させる。これが介錯人の役割です。
しかし、一刀のもとに首を切り落とすのは難しく、首を斬り損ねて頭や肩を何度も斬ってしまい、かえって切腹人を苦しませてしまうような失敗もかなりあったようです。
武士の面目を守るため、介錯人は剣術に長けた者が選ばれました。
扇子や木刀を刀に見立てた切腹
切腹の形式化が進むと、元禄の頃から「腹を切らずに介錯する」ことが主流となります。有名な赤穂事件で切腹を言い渡された浪士たちのほとんどが腹を切っていません。
切腹人が短刀を手にした瞬間に介錯を行う切腹や、短刀の代わりに扇子や木刀を腹にあてがったときに首を斬り落とす「扇子腹」や「木刀腹」という切腹が行われました。
これらは実際に腹を切ることはなくても立派な切腹と見なされ、名誉なこととされました。
「日本人の切腹をみよ!」11人の凄絶な切腹にフランス人が退散した堺事件
慶応4年(1868)2月15日、堺港に停泊していたフランス軍艦から水兵が上陸し、堺市中を遊行していたところ、堺を警固していた土佐藩兵と衝突。
藩兵の隊旗を奪って逃げようとする水兵に藩兵が発砲したのをきっかけに銃撃戦となり、フランス人水兵11人が死亡しました。
事件を聞いたフランス公使レオン・ロッシュは、新政府に対して土佐藩兵の斬首、賠償金の支払い、皇族と土佐藩主による謝罪などを要求し、これが認められなければ日本との全面戦争も辞さないと言ってきました。
土佐藩では、隊長2名とくじ引きで選ばれた18名の計20名を切腹させることが決まり、2月23日、堺妙国寺で切腹が行われることとなりました。
本堂の前に設けられた切腹場で、正面にフランス軍艦長ら数人を見据え、六番隊長・箕浦猪之吉が切腹の座につきます。辞世の漢詩を読み、介錯人に一礼し三宝から短刀を取ると、
「おのれはなんじらのために死ぬのではない。皇国のために死ぬのだ。日本男児の切腹を見よ」
と大声で叫び、腹を十文字に切って腸をつかみ出しました。介錯人が刀を振り下ろしましたが浅く、続けて2回目は首を深く斬りましたが、箕浦は「まだ死なぬ」と叫び、3回目でようやく首が斬り落とされました。
二人目、三人目と切腹が続きますが、凄惨な光景に耐えられなくなったのか、軍艦長は死亡した水兵と同じ11人の切腹を見終えたところで中止を申し出ます。残された9人の切腹人は「切腹させてくれ」と詰め寄りましたが、フランス人たちがそそくさと帰ってしまったため、本懐を遂げることはできませんでした。
刑罰としての切腹は、明治6年(1873)に廃止されます。
江戸時代、門限に遅れた、人から侮辱されたといった「こんなことで?」と思えるような理由で、武士は腹を切り責任を取りました。
切腹は、侍たちのつらく切ない生きざまそのものなのかもしれません。
参考文献:山本博文.『切腹』日本人の責任の取り方
そんな事件が😵💫おどろ木ももの木さんしょの木って今は遣わない表現か。でも今の大阪で騒動が起き、其れが堺で公開斬首刑とは😱。その頃にもフランス人水兵は着てたのかウンウン。
>二人目、三人目と切腹が続きますが、凄惨な光景に耐えられなくなったのか、軍艦長は死亡した水兵と同じ11人の切腹を見終えたところで中止を申し出ます。残された9人の切腹人は「切腹させてくれ」と詰め寄りましたが、フランス人たちがそそくさと帰ってしまったため、命拾いすることになりました。
命拾いとは無礼な。
本懐を遂げられなかったと表現するべき。
納得して死を覚悟した後は、もう果てたはずの命だから。
少なくとも「得した」と辱める物言いは違うと思う。
ご指摘ありがとうございます。その通りですね。
修正させていただきました。
彼らは、この大事の場面で、日本を護るための大役を仰せ使い、
特攻隊のように「日本男児の本懐」と、この日に臨んだと思われますので、
日本の為に立派に遂げ切り、武士の誉れ(名誉)に与る生き様・死に様を
むしろ、国の役に立つこの上なきチャンスだと捉えていたのだと思います。
逆にそんなチャンスは滅多にありませんし、当時の人々の国を思う気持ちに
感謝と尊敬を捧げたいと思います。国=自分達の愛する人や同胞の集まり
その御蔭で今も日本が存続でき、私達が住まわして頂けているのだと思います。
一秒でも長く心臓が動いて息をしていれば、「生きている」判定をされ、
それが全てで尊いこと、と考える今の価値観と同じで、
利他からくる生き様や誇りなぞ、今の感覚では理解され難い事だと思います。
そんなことだから、他人様を押しのけてまで生きたいという世相になる。
のっぴきならない事態に、「自分が」「拙者が」と命を懸けられるのは、
決して命を粗末に考えているからではないと思います。
くじ引きも、貧乏くじでなく大勢が名乗っての事態収集的なものです。
不埒をした外人に、日本を破壊すると言われたんですよ。私も引きます。
最初の表現に悪意があったとは思いませんが、修正頂き感謝申し上げます。