日本の公衆浴場は混浴で、浴場から帰る時は男も女も素っ裸で歩いている。
これは、幕末期に日本を訪れた外国人が驚きをもって書き残した記録の一部です。
江戸時代末期には、開国を求めて多くの外国人が日本を訪れるようになり、旅行記や日記などの記録を残しています。
外国人にとって、日本人はどのように見えたのでしょうか。
醜い男に、化け物のような女
1863年(文久3)修好通商条約調印のために日本に派遣されたスイスの政治家エメ・アンベールは、約10ヶ月間横浜に滞在し、江戸市中や近郊を見て回りました。
アンベールは日本人の容姿について、次のように述べています。
“身体は中ぐらい、頭でっかち、胴長、短足、顔は扁平で眼窩が浅く吊り目、頬骨突出、出っ歯、頭髪は黒色直毛、皮膚の色はオリーブ色の混ざった褐色、ただし女性の顔は男性よりも白く、上流階級の女性には抜けるほどの色白の者も多く見うけられる。娘盛りの女性でさえ胸が小さい。” (引用:『欧米人の見た開国期日本』P12)
アンベールの記録は観察したままを客観的に述べており、日本人の特徴をよくとらえています。
幕末期に日本を訪れた外国人の間では「日本の男たちはとにかく醜い」というのが定説だったようです。しかし、そんな男性以上にすこぶる評判が悪かったのが、既婚女性のお歯黒と眉ぞりでした。
1859年(安政5)に来日したイギリス初代駐日公使ラザフォード・オールコックは、
“日本の婦人は、人工的な醜さの点で比類ないほど抜きんでて”おり、その“化け物めいた化粧”で、“歯を黒く染めて墓穴のような口をしている。”
“日本では、男は自分か妻のどちらかが死ぬまで、化け物のようなグロテスクな妻の顔を見ながら一緒に暮らす運命を担わされている”(引用:前掲書P31)
と既婚女性のおぞましさについて語り、男性に同情までしています。
日本で最も美しい見ものは日本娘
化け物呼ばわりされた既婚女性とはうってかわって、結婚前の娘の評価はとても高いものでした。
1866年(慶応2)に来日したデンマーク海軍の軍人エドアルド・スエンソンは、日本の若い娘について
“男たちの醜さからは程遠く、色白で赤みを帯びた肌、豊かな黒髪、愁いを含んだ黒い瞳と生き生きとした顔は、まさに美人のそれであり、身長は低いが体格は良く、首から肩、胸にかけての線は彫刻のモデルになれるほどである” (引用:前掲書P20)
と称賛し、1870年に福井藩の藩校教師として日本を訪れたウィリアム・グリフィスにいたっては、
“日本で最も美しい見ものは日本娘である。” (引用:前掲書P24)
と言い切っています。
美人の産地は、京都、佐賀、福井、加賀、越後
幕末期に来日した外国人の間で、京美人はつとに有名でした。
また、ドイツ人医師エンゲルト・ケンペルが著書『日本誌』(1777年刊)で、「佐賀の女性はアジアのどこよりもよく発育しており美しい」と書いたことから、佐賀も美人の産地として知れ渡っていたようです。
京都や佐賀以外にも加賀、越前福井地方、越後に美人が多いという感想が多く、1861年(万延2)に来日し、日本各地を従軍医として巡ったイギリス人ウィリアム・ウィリスは、
“越後地方の住民は、私がこれまで見て来た日本のどの地方の人々よりも容貌がととのっており、身分の低い女たちにもほとんどヨーロッパ人と同じほどの肌の美しいものがいる” (引用:前掲書P23)
とべた褒めしています。
さらに、イギリス領事館員アーネスト・サトウと同僚フリーマン・ミットフォードは、加賀から福井へと旅をしたときの記録の中で
ミットフォードが、
“加賀の女性は器量の良いことで有名である”
と記し、サトウは、
“福井ほど美しい娘の大勢いるところをほかに見たことがない”
と述べています。
現代でも日本海側には美人が多いという説をよく耳にしますが、幕末期の外国人も同じ感想をもったようです。
外国人が驚愕した混浴と日本人の裸事情
江戸時代の日本人は裸体をさらすことにあまり抵抗が無く、裸に対しておおらかでした。人足などの労働者はふんどし一枚で仕事をしていましたし、夏の暑い日に長屋のおかみさんが腰巻きだけで過ごす姿も普通のことでした。
男女混浴はあたりまえで、湯屋から出た男女が素っ裸で家へ帰るのもよく見られました。また湯屋の前を欧米人が通りかかると、見物のために我先にと全裸の男女が飛び出してくることもあったようです。
しかし、これは欧米人にとって前代未聞のことであり彼らの理解をはるかに超えることでした。特に禁欲的な欧州の倫理観からすると「日本人は羞恥心や礼節といった道徳観念が欠けており、性的に堕落している」と感じられたのでしょう。
外国人の驚愕は、強い非難へと変化していきます。
たとえば、ペリー提督に随行したサミュエル・ウィリアムズは、
“日本は自分が知っている非キリスト教諸国の中で、最も淫蕩な国ではないか”
と言い、ペリーのほぼ一年後に箱館を訪れたドイツ人リュードルフも
“日本のように男女がこれほど卑猥な方法で一緒に生活する国は、世界中どこにもない”
といった厳しい見解を示しています。
こうした西洋からの非難や在留欧米人の圧力によって、新政府は1868年(明治元年)、混浴禁止令を発令します。
実は幕府時代にも風紀を乱すとして繰り返し混浴禁止の触れが出されましたが、男女の湯船を分けるには多くの経費がかかるため混浴がなくなることはありませんでした。
肌を隠し始めた女性たち
ところが、そんな禁令を待たずに女性たちは肌を隠し始めました。
というのも裸の女性は、欧米人からジロジロと好色な目で見られるようになったからでした。しかも彼らは裸体を見ようとしげしげと銭湯に通い、店の前で待ち構えていたと言います。
1861年(文久1)に来日したフランス軍人デュパンは次のように述べています。
“ヨーロッパ人が住みつくようになってから横浜では、銭湯から出た女性がきちんと着物を身につけるようになった。それを促したのは、体をほとんど隠さない女性に対して、ヨーロッパ人があまりにジロジロと探りこむような視線を向けるからである” (引用:前掲書P54)
では、当時の日本人男性の振る舞いはどうだったのでしょう?
福井藩校教師のアメリカ人自然科学者グリフィスによると
“日本の男たちは誰一人として女の裸をじろじろ見たりはせず、何の興味も示さなかった。”
“女の顔や手を見るぐらいの気持ちしか起こらないものらしい。” (引用:前掲書P54)
と外国人との違いを綴っています。
後年イギリス聖公会の宣教師ウェストンが言ったように、それまでの日本人の間では、裸は見てもよいが見つめてはならないものだったのでしょう。彼はまた、日本人が伝統的な男女混浴をやめたのは、外国人の偏見のせいであるとも述べています。
西欧諸国からのクレームによって出された明治政府の混浴禁止令は繰り返し発令され、明治の中頃から徐々に混浴の習慣は姿を消していきました。
西洋人たちが驚愕し非難した混浴や裸に対する大らかさといった日本人の伝統的習俗は、来日する外国人が増えるにしたがって、変わらざるを得なかったのです。
幕末から明治の初めに日本を訪れた外国人たちによる観察記録は、近代化と引き換えに日本人が失ってしまったものを再発見する重要な手がかりと言えそうです。
参考文献:石川栄吉『欧米人の見た開国期日本ー異文化としての庶民生活』
誰もその当時を知らないからなんとでも
ちゃんと文章読めよ。「銭湯から出た女性がきちんと着物を身につけるようになった。」というのは混浴の後の話であって、混浴自体が消えたのは外国人がジロジロ見たせいではなく日本が外国に合わせたからだろ。