どうする家康

【どうする家康】 織田信長の子供たちを一挙紹介 ~五徳&信忠の他にもたくさん

NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも楽しんでいますか?

ところで織田信長(演:岡田准一)の子供と言えば、長女の五徳(演:久保史緒里)とセリフでしか出番がなかった嫡男・織田信忠(おだ のぶただ)のみ。他の子たちの影が薄いものの、実は信長にはたくさんの子供たちがいました。

そこで今回は『寛政重脩諸家譜』より、信長の子供たちを一挙に紹介。

果たして大河ドラマには何人登場するでしょうか?

信長の長男・織田信忠

優秀でありながら、信長と同じ非運をたどった織田信忠

弘治3年(1557年)生~天正10年(1582年)6月2日没

幼名は奇妙丸。信長の後継者として順調に昇進すると共に、軍事方面でも松永久秀(まつなが ひさひで)や武田勝頼(演:眞栄田郷敦)討伐に活躍しました。

本能寺の変では誠仁親王(さねひとしんのう)殿下をお守りするも、明智光秀(演:酒向芳)の軍勢に囲まれて討死してしまったのです。享年26歳。

信長の次男・織田信雄(のぶお/のぶかつ)

何かといいとこナシだが、悪運強く生き延びた織田信雄

永禄元年(1558年)3月生~寛永7年(1630年)4月30日没

幼名は茶筅。はじめは伊勢国守護の北畠氏へ養子入りし、元服して北畠具豊(きたばたけ ともとよ)と名乗りました。

勝手に伊賀国へ侵攻して返り討ちにされ、信長から絶縁されかけたり、信長の死後は羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に織田の政権を奪われたりとあまりいいとこがありません。

徳川家康(演:松本潤)に泣きついて秀吉と対抗するも結局は懐柔され、秀吉の臣下となります。しかしプライドの高さから命令に違反して改易され、流罪となってしまいました。

やがて家康のとりなしで許されますが、秀吉死後の関ヶ原合戦で家康と敵対したため、今度は家康に改易されてしまいます。

後に豊臣秀頼(秀吉嫡男)より扶持を与えられ、細々と暮らしていた信雄。それが大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、家康によって5万石を与えられました。何やかんやで甘いですね。

その後、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(いえみつ。家康嫡孫)の代まで生き永らえたのでした。享年73歳。

信長の三男・織田信孝(のぶたか/のぶのり)

父譲りの武勇を誇るも、最期は非業の末路をたどった織田信孝

永禄元年(1558年)4月4日生~天正11年(1583年)4月29日没

実は次兄・信雄より若干先に生まれたと言われますが、母親の身分によって劣後したとか。伊勢の国衆・神戸(かんべ)氏に養子入りしたため、元服当初は神戸信孝と称しました。

長島一向一揆(天正2・1574年7月。第三次)の鎮圧をはじめ、各地を転戦して武功を重ねます。

本能寺の変に先立って四国征伐へ乗り出そうとしていましたが、信長の死を知った寄せ集めの兵たちが逃げ去ってしまったため、仇討ちに出られず秀吉に後れをとってしまいました。

信長の後継者選定(清洲会議)で甥の三法師(さんぽうし。長兄・信忠嫡男)を後見することとなり、次兄の信雄と対立。宿老の柴田勝家(演:吉原光夫)らと組んで秀吉に対抗します。

その柴田勝家が秀吉に敗れ去ると、信孝は信雄によって自刃させられてしまったのでした。享年26歳。

信長の四男・織田秀勝(ひでかつ)

永禄12年(1569年)生~天正13年(1586年)12月10日没

幼名は於次丸。子供のいなかった羽柴秀吉の下へ養子に出されたため、羽柴秀勝とも。

秀吉に従って中国攻め(常山城の戦い)で初陣を飾り、後に実父・信長の仇討ち「山崎の合戦」にも立ち会えました。

その後も賤ヶ岳の合戦(対 柴田勝家)や小牧・長久手の合戦(対 徳川家康)にも参陣しますが、次第に体調が悪化してしまいます。

やがて病床に臥すようになり、18歳という若さで養父に先立ってしまったのでした。

※なお『寛政重脩諸家譜』では朝鮮出兵(文禄の役)に参陣、文禄元年(1593年)9月に現地で病没したと言われます。

信長の五男・織田勝長(かつなが)

生年不詳~天正10年(1582年)6月2日没

幼名は於坊丸。武田信玄(演:阿部寛)の養子という名目で、甲斐国へ人質に出されていました。

天正9年(1581年)に身柄を返還され、11月24日に元服。尾張犬山城主となります。

しかし本能寺の変において長兄・信忠と共に討死したそうです。

信長の六男・織田信秀(のぶひで)

イメージ

生没年不詳

幼名は大洞。祖父・織田信秀(演:藤岡弘、)と紛らわしいですね。本能寺の変時点ではまだ元服前で、明智の軍勢から逃げ延びていました。

後に秀吉へ仕え、羽柴の苗字や豊臣の姓を与えられるなど、信長の遺児としてそれなりの待遇ではあったようです。

キリスト教に傾倒し、大坂で洗礼を受けて切支丹となった時は、怒る生母を説き伏せてむしろキリスト教への理解を深めたと言います。

一方で九州征伐や朝鮮出兵(文禄の役)にも参陣しますが、癩病(らいびょう。ハンセン病)のため京都で亡くなりました。

信長の七男・織田信高(のぶたか)

天正4年(1576年)生~慶長7年(1602年)12月12日没

幼名は小洞。兄の大洞(織田信秀)とペアみたいですね。織田信秀の仲介によって秀吉に仕え、羽柴の苗字を許されて羽柴藤十郎とも称しました。

関ヶ原合戦においては徳川家康率いる東軍に与した説(『寛政重脩諸家譜』など)と、石田三成(演:中村七之助)率いる西軍に与して敗戦後に赦された説(『関原軍記大成』など)があるそうです。

その後は目立った活動もないため、恐らく西軍に属して改易に処されたと考えられます。

信長の八男・織田信吉(のぶよし)

関ヶ原合戦図屏風。信吉らはどこに?

天正元年(1573年)生~元和元年(1615年)4月18日没

幼名は酌。酒でも酌んでいたのでしょうか。ちなみに織田信高より年上ですが、当時の兄弟順は生まれた順番ではなく「父親に認知された順番」「母親の身分」で決まることも少なくありませんでした(諸説あります)。

信長の死後は母と共にひっそり暮らしていたところを秀吉に召し抱えられます。

関ヶ原合戦では西軍につき、弟の織田信次(のぶつぐ)らと共に参戦しました。しかし信次は討死、信吉は脱出に成功したものの、改易されてしまったのです。

晩年は京都で暮らし、出家して43歳まで生きたのでした。

信長の九男・織田信貞(のぶさだ)

天正2年(1574年)生~寛永元年(1624年)6月6日没

幼名は人。他の子たちはいったい何の生き物だったのでしょうか。父の死後は埴原長久(はいばら ながひさ)に養われ、成長すると秀吉に召し抱えられます。

関ヶ原の合戦では西軍に与し、敗れてしまいました。信長の遺児ということで死一等を減じて改易処分とされたそうです。

やがて家康に仕え、大坂の陣では徳川方として参戦。51歳で世を去ったのでした。

信長の十男・織田信好(のぶよし)

イメージ

生年不詳~慶長14年(1609年)7月14日没

幼名は良好。信長の機嫌がすこぶる良好だったのかも知れませんね。

その生涯はほとんど謎に包まれており、主に茶人として生きたと言われています。

信長の十一男・織田信次(のぶつぐ)

天正年間前半ごろ(1574~1582年)生~慶長5年(1600年)9月15日没

幼名は縁。何かよいめぐり合いがあったのでしょうか。秀吉に仕え、関ヶ原合戦では西軍に属して討死してしまいました。

信長の娘たちを一挙に紹介!

以下、信長の娘たちを一挙に紹介します(紹介文は『寛政重脩諸家譜』より)。

女子 母は信忠におなじ。岡崎三郎信康君の室。

女子 蒲生飛騨守氏郷が室。

女子 筒井伊賀守定次が室。

女子 前田肥前守利長が室。

女子 丹羽五郎左衛門長重が室。

女子 二條関白昭實公の室。

女子 萬里小路大納言充房が室。

女子 水野東市正忠胤が室、のち佐治與九郎一成に嫁す。

女子 豊臣太閤秀吉の妾、三丸と称す。

女子 中川右衛門大夫秀政が室。

女子 徳大寺中納言實冬が室。

女子 實は苗木勘太郎某が女、信長に養はれて武田四郎勝頼が室となる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第四百八十八 平氏(清盛流)織田

ちゃっかり秀吉の妾にされている娘がいますね。他の娘たちがちゃんと室(正式な妻。正室/側室)として遇されているのに、複雑な気分だったことでしょう。

以上、ごくざっくりながら信長の子供たちを紹介してきました。血縁関係のない子供はまだいるようですが、ひとまずここまでにしようと思います。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には誰が、何人登場するのか?予想してみると楽しいかもですね!

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月
  • 小和田哲男『織田家の人びと』河出書房新社、1991年10月
  • 高木昭作 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年1月
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』東京堂出版、2000年9月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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