NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルである牧野富太郎。
矢田部良吉教授に東大への出入り禁止を言い渡された牧野を再度大学へ復帰させたのは、田中哲司さん演じる徳永助教授のモデル松村任三でした。
牧野の窮地を救った松村任三でしたが、しだいに二人の関係は悪化し、松村は牧野を罷免へと追い込むことになります。
松村任三とは
安政3年(1856)、松村任三は常陸国松岡藩の家老職の家の長男として生まれました。明治3年、藩の貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学。貢進生は「大藩二名小藩一名」と決まっており、松村は「小藩一名」に選ばれています。
明治10年、東京大学小石川植物園に奉職し、矢田部良吉教授の助手となります。松村は矢田部とともに日本の標本室の基礎を築きました。
当時、日本の植物標本は西洋人によってすべて国外に持ち出され、国内には一点の標本もありませんでした。矢田部と松村は休み返上で全国を回り、約8年という短期間で3000種類もの標本を収集しました。標本は松村によって同定され、標本室に納められたのでした。
また、松村は数多くの植物学の書籍を出版しましたが、中でも多大な労力と時間を要して完成させた『帝国植物名鑑』は、日本植物を集大成した総合目録であり、目録類の業績として最もすぐれた著作であると言われています。
明治23年、矢田部に代わって東京大学教授となった後、大正11年に退官するまでの32年間、松村任三は植物学の発展に尽力しました。
松村任三と牧野富太郎の関係
明治23年、矢田部良吉の後を受けて主任教授となった松村は、植物学教室の出入り禁止になっていた牧野に助手への就任を打診し、明治26(1893)年、牧野は月給15円で東京帝国大学理科大学に助手として採用されました。
助手になり研究の基盤ができたことで、牧野は研究に邁進します。しかし、牧野が活躍すればするほど松村との関係は悪化していきました。
二人の関係の悪化について、牧野はこう述べています。
“私が専門にしているのは分類学なので、松村氏の専門も矢張り分類学で、つまり同じような事を研究していたのである。それを私は誰はばからずドシドシ雑誌に発表したので、どうも松村氏は面白くない、つまり嫉妬であろう” (『牧野富太郎自叙伝』より引用)
牧野は輝かしい成果をあげていました。植物採集の範囲は広がり、精力的に『植物学雑誌』に論文を発表していきます。そうした中、牧野と松村の研究結果が矛盾することがあり、牧野は松村の誤りをたびたび指摘しました。
牧野は相手が誰であっても遠慮なく間違いを指摘しました。それが学問の発展につながると信じていたからです。こうした上下関係を無視した牧野の振る舞いが、人間関係の悪化に拍車をかけます。執筆を少し自重しろという松村に対して、牧野は次のように考え発表を控えることはありませんでした。
“私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はない、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏の忌諱にふれた。” (『牧野富太郎自叙伝』より引用)
松村は士族の出です。武士は家柄や役職、禄高などで差別される厳しい上下関係のある身分集団でした。松村にも身分制が染みついていたのでしょう。大学の階級社会を無視して我を通そうとする牧野は、許し難い存在だったのかもしれません。
松村は学問的な面だけでなく、感情面からも牧野に圧迫を加えるようになります。
『大日本植物志』の出版と対立の激化
松村からの圧迫だけでなく、牧野を苦しめたのは給料が上がらないことでした。牧野に同情した大学総長・濱尾新は、新しい仕事を与えて給料を上げてやろうと考え、『大日本植物志』の編纂を牧野に任せます。
これは植物学者ならだれもが着手したいと思うやりがいのある仕事でした。自らが望んでいた仕事を大学の費用でできることになった牧野は、情熱をもって仕事にのぞみます。『大日本植物志』は素晴らしい出来でした。特に植物画は、緻密さ、正確さ、美しさにおいて他に類を見ない傑作と言われています。
ところが、牧野がほぼ単独で行っていた『大日本植物志』は、松村にとっては喜ばしいものではありませんでした。ことあるごとに難癖をつけ、「牧野以外の人間にも執筆させるべきだ」と主張しますが、自分のために学長が与えてくれた仕事だと信じていた牧野は、松村の言うことに耳を貸しません。
結局『大日本植物志』はわずか第4集で頓挫することになり、牧野の給料は上がることはありませんでした。
その後、松村は牧野を大学から追放しようと画策します。牧野の理解者であった箕作佳吉学長の後任に、植物学教室の事情を知らない櫻井錠二学長が就くと、松村は牧野罷免へと働きかけます。
一度は罷免されたものの、牧野は仲間の嘆願により大学の講師として採用され、俸給も30円に引き上げられました。貶めるつもりが、かえって牧野の立場を良くすることになってしまったのです。
学歴時代の到来
牧野とそっくりな道をたどった学者に鳥居龍蔵がいます。
明治3年徳島の裕福な商家に生まれ、正規の学校教育を全く受けることなく東京大学の人類学研究室につながりをもち、51歳で博士号を取得。助教授に任命されるも、3年後に辞表をたたきつけて大学を辞めています。
鳥居が大学を去るきっかけとなったのは、奇しくも松村任三の子・松村瞭の博士論文審査でした。
教育学者の天野郁夫氏は著書『教育と日本の近代 学歴の社会史』で、牧野・鳥居と大学の関係について次のように指摘しています。
“かれらは、大学がすでに「学歴」の、さらにいえば「学閥」の世界になりつつあることを知らなかった。
小学校卒業の学歴すら持たない者にとって、大学がいかに拒否的な、生きにくい世界であるかを、やがてかれらはいやというほど知らされることになる。学者としての卓越した天分をもっていたがために、彼らは正規の学歴をもち「校縁」に結ばれた教授たちの憎しみを買わねばならなかった。(中略)学問の世界に、学歴の時代はあっという間にやってきた。学歴を軽視し、無視したかれらは、たちまち手きびしい報復を受けなければならなかった。“(『教育と日本の近代 学歴の社会史』より引用)
松村と牧野の確執は、明治維新後に生まれた「学歴」によってもたらされたものだったのかもしれません。
参考文献
・牧野富太郎著『牧野富太郎自叙伝』
・天野郁夫著『教育と日本の近代 学歴の社会史』
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