今回は三国志における伝説的なアイテム『玉璽(ぎょくじ)』について語りたい。
玉璽とは簡単に言えば、「皇帝が用いる印章」のことである。
この玉璽は、三国志関連の本や漫画を読んだことのある方なら、孫堅が手に入れた後、袁術が手にしたという流れは知っているだろう。
問題はその後だ。
袁術は結局滅ぼされることになるのだが、この玉璽がどうなったかについては、あまり注目されていないのである。
玉璽はどこへ行ってしまったのだろうか?
三国志演義における玉璽の経路
まずは、三国志演義における玉璽の経路を再確認しよう。
○三国志演義の玉璽の流れ
① 董卓が洛陽を焼け野原にし、長安へ遷都したことによって、玉璽が行方知れずとなる。
② 洛陽へ一番乗りした孫堅が、五色の光が差している古井戸を発見、探ってみると玉璽があった。
③ その玉璽には『受命于天既壽永昌(命を天より受け、寿くしてまた永昌ならん)』という記載があり、孫堅はこれを好機と捉えて帰国する。
④ 孫堅の不自然な動きに気がついた反董卓連合の盟主である袁紹は、劉表の軍勢を差し向ける。
⑤ なんとか帰参した孫堅だったが、この時の劉表への恨みが消えず、袁術の要請を受けてこれ幸いと劉表攻めを開始する。
⑥ 孫堅軍が優勢だったが劉表配下の策略にはまり、孫堅が射殺される。
⑦ その結果、孫堅軍は一気に弱体化し、息子の孫策らは袁術の勢力下に入る、この時、孫策が玉璽を持っていた。
⑧ 孫策は、袁術に玉璽を渡す代わりに兵を借りることに成功。その兵を率いて江東一帯を手中に収める。
⑨ 玉璽を得た袁術は調子に乗って皇帝に即位するが、諸侯から猛反発に遭い、滅亡する。
三国志演義ベースの漫画やゲームでは、ほとんどがこの流れとなっている。
玉璽を取り巻く物語は、洛陽の井戸から始まって、袁術の元にたどり着き、滅ぼされて終わりという形だ。
その後は、献帝の元にたどり着いた?
その後、玉璽はどうやら献帝・劉協の元に辿り着いたようだ。
献帝は189年から220年と約30年間も在位した後漢の帝であり、董卓の暴政も目の当たりにした苦労人な帝である。
220年、魏の曹操の死後、息子の曹丕に献帝に「禅譲」を迫られたことで皇帝の位を譲っている。
そんな献呈が在位中の199年、袁術が死亡し、袁術の国『仲』が瓦解した。
この時、袁術の元にいた徐璆(じょきゅう)という人物が玉璽を持ち出し、献帝に返上したと言われている。
これは『先賢行状』『後漢書』に記述があり「袁術以降の玉璽保持者が誰になったか」を明かしてくれる貴重な文献となっている。
というのも、その後の様々な文献で献帝・劉協と玉璽にまつわる逸話が度々登場するのである。つまり、袁術の国『仲』の消滅とともに玉璽が無くなってしまったのでは、辻褄が合わなくなるのだ。
有名な逸話としては「献帝が退位を要求されたことで、妻で曹丕の妹でもある曹節が憤って玉璽を投げ捨てた」というものがある。
これ以外にも献帝と玉璽の逸話はいくつか存在しており、献帝が玉璽を持っていたことだけは明らかとなっている。
その後、玉璽は曹丕が手にしている。
玉璽は1個ではなかった?
最終的に玉璽は曹丕が手にしているが、これとは別にとんでもない説もある。
それは「玉璽は1つだけではなく、7つあった」という説だ。
この説では、皇帝が用いる玉璽には『天子の六璽』と呼ばれるものがあったとされている。
それは『皇帝行璽』『皇帝之璽』『皇帝信璽』『天子行璽』『天子之璽』『天子信璽』と呼ばれる6種類で、これは洛陽で拾われた玉璽とは別物である。
つまり、玉璽は7個も存在していることになる。
本当に7個もあったのなら、仮に袁術の元にあった玉璽が行方不明になっていたとしても、献帝の元には『天子の六璽』は最初からずっとあったことになる。
7個というのは、まるでドラゴンボールのようであり、大変興味深い説である。
参考 : 『孫堅伝』の注にある『呉書』『山陽公載記』『三国志演義』『先賢行状』『後漢書』
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