三國志

【三国志】 玉璽は「孫堅→袁術」へ渡った後、どこへ行ったのか? 【7個あった説】

玉璽
今回は三国志における伝説的なアイテム『玉璽(ぎょくじ)』について語りたい。

玉璽とは簡単に言えば、「皇帝が用いる印章」のことである。

この玉璽は、三国志関連の本や漫画を読んだことのある方なら、孫堅が手に入れた後、袁術が手にしたという流れは知っているだろう。

問題はその後だ。

袁術は結局滅ぼされることになるのだが、この玉璽がどうなったかについては、あまり注目されていないのである。

玉璽はどこへ行ってしまったのだろうか?

三国志演義における玉璽の経路

玉璽

イメージ画像 : 清朝 乾隆帝の玉璽 public domain

まずは、三国志演義における玉璽の経路を再確認しよう。

○三国志演義の玉璽の流れ

董卓が洛陽を焼け野原にし、長安へ遷都したことによって、玉璽が行方知れずとなる。

② 洛陽へ一番乗りした孫堅が、五色の光が差している古井戸を発見、探ってみると玉璽があった。

③ その玉璽には『受命于天既壽永昌(命を天より受け、寿としながくしてまた永昌ならん)』という記載があり、孫堅はこれを好機と捉えて帰国する。

④ 孫堅の不自然な動きに気がついた反董卓連合の盟主である袁紹は、劉表の軍勢を差し向ける。

⑤ なんとか帰参した孫堅だったが、この時の劉表への恨みが消えず、袁術の要請を受けてこれ幸いと劉表攻めを開始する。

⑥ 孫堅軍が優勢だったが劉表配下の策略にはまり、孫堅が射殺される。

⑦ その結果、孫堅軍は一気に弱体化し、息子の孫策らは袁術の勢力下に入る、この時、孫策が玉璽を持っていた。

⑧ 孫策は、袁術に玉璽を渡す代わりに兵を借りることに成功。その兵を率いて江東一帯を手中に収める。

⑨ 玉璽を得た袁術は調子に乗って皇帝に即位するが、諸侯から猛反発に遭い、滅亡する。

三国志演義ベースの漫画やゲームでは、ほとんどがこの流れとなっている。

玉璽を取り巻く物語は、洛陽の井戸から始まって、袁術の元にたどり着き、滅ぼされて終わりという形だ。

その後は、献帝の元にたどり着いた?

玉璽

画像 : 献帝 public domain

その後、玉璽はどうやら献帝・劉協の元に辿り着いたようだ。

献帝は189年から220年と約30年間も在位した後漢の帝であり、董卓の暴政も目の当たりにした苦労人な帝である。

220年、魏の曹操の死後、息子の曹丕に献帝に「禅譲」を迫られたことで皇帝の位を譲っている。

そんな献呈が在位中の199年、袁術が死亡し、袁術の国『』が瓦解した。
この時、袁術の元にいた徐璆(じょきゅう)という人物が玉璽を持ち出し、献帝に返上したと言われている。

これは『先賢行状』『後漢書』に記述があり「袁術以降の玉璽保持者が誰になったか」を明かしてくれる貴重な文献となっている。

というのも、その後の様々な文献で献帝・劉協と玉璽にまつわる逸話が度々登場するのである。つまり、袁術の国『仲』の消滅とともに玉璽が無くなってしまったのでは、辻褄が合わなくなるのだ。

有名な逸話としては「献帝が退位を要求されたことで、妻で曹丕の妹でもある曹節が憤って玉璽を投げ捨てた」というものがある。

これ以外にも献帝と玉璽の逸話はいくつか存在しており、献帝が玉璽を持っていたことだけは明らかとなっている。

その後、玉璽は曹丕が手にしている。

玉璽は1個ではなかった?

※画像 : 曹丕 public domain

最終的に玉璽は曹丕が手にしているが、これとは別にとんでもない説もある。

それは「玉璽は1つだけではなく、7つあった」という説だ。

この説では、皇帝が用いる玉璽には『天子の六璽』と呼ばれるものがあったとされている。

それは『皇帝行璽』『皇帝之璽』『皇帝信璽』『天子行璽』『天子之璽』『天子信璽』と呼ばれる6種類で、これは洛陽で拾われた玉璽とは別物である。

つまり、玉璽は7個も存在していることになる。

本当に7個もあったのなら、仮に袁術の元にあった玉璽が行方不明になっていたとしても、献帝の元には『天子の六璽』は最初からずっとあったことになる。

7個というのは、まるでドラゴンボールのようであり、大変興味深い説である。

参考 : 『孫堅伝』の注にある『呉書』『山陽公載記』『三国志演義』『先賢行状』『後漢書』

 

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」
  2. 劉禅は本当に暗君だったのか?【正史三国志】
  3. 夏侯淵 ~魏の愛すべき名将「淵ジェル」の実像 【三国志正史での活…
  4. 三国志序盤の隠れた天才!? 皇甫嵩とは一体何者なのか?
  5. 【曹操vs袁紹】天下分け目の官渡の戦い
  6. 伝説の爆乳ベトナム女戦士~ 趙氏貞 【鎧からはみ出すほどの超巨乳…
  7. 袁術が建国した2年間だけの伝説の王朝「仲」
  8. 桃園の誓いはフィクションだった【劉備 関羽 張飛の義兄弟の契り】…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

やなせたかし「代表作がない…」絶望の中で生まれた『手のひらを太陽に』※あんぱん

子どもたちのヒーロー「アンパンマン」。その作者・やなせたかし氏は、テレビアニメの成功によって一躍…

ジュラ紀最強の肉食恐竜 アロサウルス

ジュラ紀の最後に現れた支配者超巨大恐竜の時代であるジュラ紀は、草食恐竜とともに肉食恐竜も…

【戦前のカフェー】 喫茶店ではなく風俗店だった 「時代を象徴する源氏名」

大正後期から昭和初期にかけて、一つの文化を形成したカフェー。当初、文化人が集うサロン的な役割…

事件発生【漫画~キヒロの青春】91

引っ越しは終わりましたが、荷物がまだ全然片付いていません。。【毎週日曜日に更新します…

関ヶ原の合戦で、上杉景勝と戦った結城秀康。なぜ彼は殿軍を引き受けた? 【どうする家康】

徳川家康の次男として生まれ、豊臣秀吉・結城晴朝とたらい回し、もとい養子に出された結城秀康(於義伊)。…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP