第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判や東京裁判において「人道に対する罪」という新たな概念が定義されました。
これは国家の権力を規制し、個人の人権を守る画期的な発想の転換でした。
ナチス・ドイツは、当時のドイツ国内法に基づいて、合法的にユダヤ人への迫害をエスカレートさせ、ついにはホロコースト(大量虐殺)に踏み切りました。
しかし「人道に対する罪」の概念により、国際法上、ホロコーストは重大な人道的犯罪と位置づけられたのです。
アイヒマン裁判では、ホロコーストの実行犯であるアイヒマンの刑事責任が厳しく追及され、死刑判決が下されました。哲学者のハンナ・アーレントは、凡庸な官僚の象徴としてのアイヒマン像を見事に描き出しています。
アーレントの分析は、個人の意志と全体主義の恐ろしさを世に知らしめ、全体主義の研究に大きな影響を与えました。「人道に対する罪」の概念は、国家権力から個人の尊厳を守る画期的な発明でもあったのです。
今回の記事では、この「人道に対する罪」の概念の意義と影響について解説します。
「人道に対する罪」とは?
ドイツで行われたニュルンベルク裁判や極東国際軍事裁判(東京裁判)では、新たに「人道に対する罪」という概念が設けられただけではありません。「平和に対する罪」と「戦争犯罪」に関する個人的な責任についても裁かれました。
「平和に対する罪」とは、侵略戦争の計画・準備・開始を行うこと自体を犯罪と規定したものです。第一次世界大戦後に「不戦条約」が結ばれ、戦争の違法化が進んでいましたが、個人の刑事責任として明確化されたのは初めてのことでした。
「戦争犯罪」とは、武力紛争法(ジュネーヴ条約等)に違反する残虐行為などを意味します。既存の国際法による枠組での違法行為ですが、これも個人の責任が問われること自体が新しかったと言えます。
今までの国際法では、個人が犯罪の責任を問われることはなく、国家間の問題として扱われてきました。しかしニュルンベルク裁判で初めて、国際法違反を「個人の犯罪」としたことが画期的だったのです。
「人道に対する罪」は今までにない新しい概念で「ある国家で制定された国内法に基づいた合法的な行為であっても、人道的な見地から国際社会が個人の責任を問うことができる」という発想です。
人種差別的な大量虐殺を「国際法上の犯罪」とする意義は大きかったと言えるでしょう。
ナチスによるユダヤ人虐殺と「人道に対する罪」
従来の国際法に基づく考え方では、国の主権は絶対的で、その国家における国内法で合法とされる行為に他国が介入することは許されていませんでした。
たとえばナチス・ドイツのユダヤ人に対する差別政策や迫害は、当時のドイツ国内法では範囲内の行為でした。
しかし「人道に対する罪」の概念により、国内法では合法であっても人道的な見地から重大な犯罪と見なされる場合、国際社会がこれらの行為を犯罪として個人の責任を問うことが可能になりました。
つまり「人道に対する罪」によって、国家主権の絶対性が相対化され、国内法を超えて普遍的な人道の原則が優先されることになったのです。
「人道に対する罪」は、国際法の大きなパラダイムシフトでした。この概念により、主権国家の権力が人道的視点から初めて制約を受けることになったと言えます。
ナチスは政権掌握後、ユダヤ人に対する差別政策を徐々に強化していきます。1935年のニュルンベルク法では、ユダヤ人の市民権を剥奪し、社会からの隔離を推し進めます。
これら一連の措置ですが、当時のドイツでは法律の範囲内で行われたもので、国内法上は「合法」的な行為でした。しかし過酷な迫害へと次第にエスカレートしていきます。そして1941年のヴァンゼー会議で、ユダヤ人の「最終的解決」、つまり“絶滅”がドイツの正式な政策として決定され、ホロコースト(大量虐殺)が開始されたのです。
こうした一連の過程も、全てドイツ国内法上で合法的に行われたものでしたが「人道に対する罪」の概念によって、国際法上の重大な犯罪行為と認定されました。
しかしドイツの敗戦によって、ナチス政権は事実上崩壊し、最高指導者のヒトラーらは自殺しています。
国家としてのドイツに責任を取らせることが困難な状況となりましたが、ホロコーストなどの人道に対する重大な犯罪行為が行われたことは明白でした。
そのため連合国はそれぞれの実行犯や指揮命令系統の個人を裁くことで、責任の所在を明確にし、犯罪行為に対する正義の実現を図ろうとしたのです。
そこで新たに定義されたのが「人道に対する罪」の概念でした。国家の枠を超えて、人道に反する行為に関与した個人に直接責任を問うことができるからです。
ニュルンベルク裁判を通じて、ナチス指導者の罪が個人レベルで明確化され「人道に対する罪」の概念の有効性が確認されたと言われています。
個人への責任追及と「人道に対する罪」の有効性
ナチスによるユダヤ人虐殺は、ただ単に一国の国内法の問題にとどまるものではなく、人類の存続と尊厳に関わる深刻な犯罪です。
ホロコーストをはじめとする大量虐殺は、特定の人種や民族に対する根絶の意図があるため「人類」の多様性を損なう行為といえます。
まずニュルンベルク裁判では、ヒトラー内閣の重要閣僚や軍の最高司令官らナチスの最高幹部が「人道に対する罪」で有罪判決を受けました。ゲーリング、リッベントロップ、カルテンブルンナーなどが該当します。
次にニュルンベルク継続裁判の1つである医師裁判では、強制収容所での人体実験など非人道的行為を行った医師らが「人道に対する罪」で裁かれ、有罪となりました。
さらに1948年の国連総会で採択されたジェノサイド条約は、ある集団の全部または一部を殲滅することを禁止しており、「人道に対する罪」に相当する概念と位置づけられています。
アイヒマン裁判とハンナ・アーレント
アドルフ・アイヒマンは、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人虐殺の実行責任者の一人で、終戦後アルゼンチンに逃亡していました。
イスラエルの諜報機関モサドは1960年、アイヒマンをブエノスアイレスで捕らえ、イスラエルに移送しました。
エルサレムで1961年から翌年にかけて行われたアイヒマンの裁判では、ホロコーストでの役割が「人道に対する罪」として厳しく追及され、死刑判決が下されました。
この裁判を通じて、ナチスの戦争犯罪への個人的責任が明確化されたといえます。
ハンナ・アーレントは、ユダヤ系ドイツ人の政治哲学者で、アイヒマンの裁判を傍聴しました。
アーレントは1963年に『エルサレムのアイヒマン ― 悪の陳腐さについての報告』を発表しています。
ここでアーレントは、アイヒマンを単なる官僚的な存在として描き出しました。確固たる信念もなく、ただ上官の命令に従って残虐行為を遂行する「凡庸な存在」としてのアイヒマン像を示したのです。
アーレントは、「アイヒマンのように個人の良心や思考を放棄してしまえば、誰もが加害者に成り得るという危険性がある」と指摘しました。
このアーレントの分析は全体主義への警鐘として大きな影響力を持ち、個人が持つ道義的責任の重要性を喚起するとともに、全体主義の恐ろしさを世に知らしめるものとして大きく貢献します。
以後の全体主義や権威主義に関する研究において、アーレントの示した視点は大きな影響を与え続けています。
個人の意志と国家体制の関係性を問う上で、現在においても重要な文献と言えるでしょう。
参考文献:仲正昌樹(2005)『日本とドイツ 二つの戦後思想』光文社
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