本能寺の変の後、織田家の後継者および領地再分配を決めるために開かれた清洲会議は、歴史の転換点ともいえる。
ここで歴史的に一躍有名になったのが、織田信忠の嫡男である三法師(織田秀信)である。
三法師は秀吉に担ぎ上げられて織田家の後継者とされたが、その後の人生についてはあまり知られていない。
三法師はその後、どうなったのであろうか?
三法師(織田秀信)の概要
まずは、三法師(秀信)のプロフィールを簡単にまとめる。
人名:織田 秀信(おだ ひでのぶ)
幼名:三法師
別名:三郎、岐阜中納言
官位:従四位下・侍従、左近衛権少将、参議、従三位・権中納言、正三位
主君:豊臣秀吉→秀頼
出生:1580年
没年:1605年7月13日
享年:26歳
父親:織田信忠
母親:徳寿院(塩川長満の娘)
正室:和田孫太夫の娘
側室:町野(生地真澄の娘)
兄弟:秀則
子供:諸説あり
主な参戦:文禄の役、関ヶ原の戦い
関わりの深かった人物:豊臣秀吉、池田輝政、福島正則 等
信長の野望 新生PK:統率32、武力39、知力36、政治51、総合順位2201人中2070位
豊臣秀吉に大事に扱われる
三法師が歴史の表舞台に登場するのは、前述したとおり清洲会議である。
本能寺の変の後、三法師は秀吉によって織田家の後継者として推薦される。
秀吉の目的は、三法師を神輿として実質的な織田家の後継者となることだった。
このとき三法師は3歳であり、政治や織田家のことなどは分かるはずもなかった。
三法師は3歳で織田弾正忠家の家督を相続し、直轄領として近江国中郡を承ったが、実質的に秀吉が差配している状態だったのは言うまでもない。
三法師は当初は近江にいたが、賤ヶ岳の戦い後は安土城仮屋敷に居を移したと言われている。
1584年、小牧・長久手の戦い(秀吉 vs 織田信雄・家康)が起こるが、この戦いの講和後に、秀吉は三法師の名代だった叔父の信雄を正式な織田家の当主とした。つまり、この時点で三法師は織田家当主から外れたのである。(※織田家当主は信雄の後、その嫡男・秀雄が継いでいる)
しかし、その後も三法師は秀吉に大切に育てられ、1588年、9歳で元服した。
秀吉から『秀』の字を与えられ、『秀信』と名乗った。※以下、秀信と記述する。
『秀信』という名は、秀吉の「秀」を信長の「信」の上にしたことで優位性を示した意味もあれば、大切にしているというアピールの意味も汲み取れる。
元服後は岐阜城と13万石の土地を与えられ、1592年の文禄の役に出陣し活躍したという。
1593年、羽柴姓も贈られ従三位、権中納言となった。
1594年には新公家衆の一人として参内しており、秀吉から厚遇されていたことがよくわかる。
信頼できる子飼の一人という扱いだろうか。
ここまでは秀吉の庇護下で順風満帆に育ったといえるだろう。
秀吉の死、そして関ヶ原の戦いへ
秀吉死後の天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いにおいては、秀信は西軍に与して戦った。
秀信は家康との戦の気配を感じてか、関ヶ原の戦いが始まる前年には戦支度をしていたようだ。
秀信が西軍についたことで、美濃の諸勢の大半は秀信の元に集っており人望があったことが覗える。
秀信の戦場は関ヶ原ではなく、美濃であり、池田輝政、浅野幸長、山内一豊らが率いる東軍と激突することになった。
これは『米野の戦い』と呼ばれ、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである。
この戦いは戦力差が3000対18000と絶望的だったために、秀信は敗れる。
その後も奮戦するが、秀信の配下だった杉浦重勝が『竹ヶ鼻城の戦い』で敗れ、追い詰められた秀信は岐阜城に籠城した。
しかし、籠城戦においても凌ぐことができず、ついに秀信は降伏開城して戦いは終わった。
最後まで西軍として戦った秀信は本来であれば処刑されてもおかしくなかったが、東軍には元家臣の縁者も多く、多くの助命嘆願によって生き延びたのであった。
福島正則は、自分の武功を引き換えにして助命嘆願したという。
高野山に行ったが・・・
助命嘆願によって生き延びた秀信であったが、所領は没収となり高野山で修行を積むことになった。
しかし、そこで秀信を待っていたのは苦難であった。
かつて祖父・信長が行った高野山攻めの影響で、秀信には恨み辛みが待っていた。
高野山側からすれば、その血を引いている秀信を簡単に受け入れられるはずもなかったのである。
散々引き延ばされた後にようやく入山許可は下りたが、入山し出家した後も迫害され続けたという。
1605年には下山し、高野山近くの山麓に幽居している。これは実質的な高野山追放と考えられている。
同年5月27日、そのまま山麓で亡くなった。(享年26)
死亡原因や、高野山を下りた具体的な理由については不明である。
子供がいるかどうかも不明となっている。
最後に
織田秀信は、秀吉によって人生を決められた筆頭ともいえそうだ。
とはいえ、少なくとも秀吉が生きていた間は厚遇されて順調に育ち、期待の若手だったはずである。
秀吉がもう少し長生きしていれば、その才気を遺憾なく発揮していたかもしれない。
参考 : 『勢州軍記』『武徳安民記』『改正三河後風土記』
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