加賀一向一揆とは
加賀一向一揆は、1488年(長享2年)に加賀で始まった本願寺門徒による一揆である。
この一揆は一向宗徒によって、1488年から1580年(天正8年)まで100年近く続いた。
一向一揆は主に近畿・東海・北陸で浄土真宗の門徒が起こした武装蜂起で、多くの戦国大名を苦しめた。
特に、加賀一向一揆は最大かつ最も長期間続いた一揆として、その代表例として扱われている。
若き徳川家康も三河一向一揆に苦しめられた経験があり、これは多くの人が大河ドラマを通じて知ることとなっただろう。
家康の三河一向一揆については
家康・三大危機の1つ 「三河一向一揆」とは? 【部下や親戚まで敵となる】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/63406/
加賀一向一揆は、一揆勢が守護大名を倒すという驚くべき始まりだったが、最終的には周囲を敵で囲まれ、解体されることになる。
今回は、加賀一向一揆の始まりから結末に至るまでの展開を、わかりやすく解説していきたい。
約束違えから始まった 一向一揆
加賀一向一揆の発端は、隣国越中の一向一揆から生じたものとみられる。
時は1471年、浄土真宗の宗祖である親鸞の子孫である蓮如(れんにょ)が、加賀と越前の境界付近に『吉崎御坊(よしざきごぼう)』という寺院を築いた。
浄土真宗の教えは極めてシンプルで、『阿弥陀如来』への感謝と『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』と唱えることによって、「誰でも極楽浄土に行ける」という教えである。この教えは、戦乱で疲弊した人々の間で急速に広まり、農民を中心に商人から武士まであらゆる階層に浸透し、浄土真宗は急速に信者を増やした。
そして大きな勢力となった浄土真宗は、加賀藩の跡目争いに巻き込まれることになる。
1473年、一向宗徒は加賀での公的認可を条件に、加賀の守護大名・富樫政親の要請を受けて家督争いに介入した。富樫家内の内紛に一向宗徒が介入したことで、富樫政親は政敵だった弟・幸千代を追い出すことに成功し、再び当主の座に就いた。(※文明の一揆)
しかし、一向宗徒が力を過剰に示したためか、味方だった富樫政親から恐れられ、1475年(文明7年)には対立することとなる。この対立に直面した蓮如は吉崎御坊を離れ、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れたが、事態は終わらなかった。
富樫政親は一向宗徒を執拗に追い詰め、1481年に越中の「福光城」で石黒光義と組んで門徒弾圧を行ったのだ。その結果、事態は激化し、一向一揆の本格的な始まりとなったのである。
越中一向一揆での戦いにおいて、石黒光義は敗北し、その後討ち取られる結末となった。この出来事は越中地方における一向一揆の始まりを象徴するものだろう。
1488年、この勢いに乗った一向宗徒は加賀でも一揆を発生させ、本格的な武士との対立が始まる。
その後、一向宗徒は、富樫政親の政に不満を持った加賀の国人たちと手を組んで、政親の居城・高尾城を攻撃し、ついに政親を自害に追い込んだ。(※長享の一揆)
この戦いにおいて、富樫軍は約1万の兵力だったが、一向宗徒は約20万人という圧倒的な戦力を持っていた。
これが一向一揆による加賀支配の始まりとなる。
表向きは富樫家が加賀の守護大名として統治する形をとったが、実際は蓮如並びにその子供たちが統治していたのである。
周辺を敵にしすぎた一向一揆
一向宗徒は主に農民であり、武士のような訓練を受けていなかったため、まとまりに欠ける軍団だった。とはいえ蓮如が生きている間は、まだ一定のまとまりを見せていた。しかし、1499年に蓮如が亡くなってしまった。(享年84)
蓮如は一向宗徒の過激な行動を容認していたわけではなく、門徒たちを説得するために積極的な努力をしていた。彼は暴走を抑える存在であり、一揆勢の抑制役でもあったのだ。その抑え役が不在になると事態は悪化していった。
蓮如の死後、統制が徐々に乱れ、周辺諸国との抗争が本格化していったのである。
1506年(永正3年)、周辺諸国を飲み込もうと攻め込むが「九頭竜川の戦い」や「般若野の戦い」において名将・朝倉宗滴率いる朝倉家や長尾家と戦って敗れた。
この時点で朝倉家、長尾家とは明確に敵対関係となる。
こうした一向宗徒の行動は本願寺中央にとっても問題であり、本願寺はこの暴走を抑えるために一門衆を圧迫し始めた。しかし、この動きにも反発が生じ、1531年(享禄4年)には内紛が勃発し、多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された。(※享禄錯乱)
それでも、1546年(天文15年)には現在の石川県金沢市にある『尾山御坊』を建立し、北陸浄土真宗の最大拠点とするなど一定のまとまりはあった。この時期、一向宗徒は力を示して北陸全域で勢力を再び拡大させたが、その結果、周辺諸国との敵対関係が一層明確になっていった。
朝倉家とも敵対し、上杉謙信とも衝突、最終的には織田信長とも敵対することとなる。
1572年(元亀3年)の尻垂坂の戦いでは上杉謙信に大敗し、1580年(天正8年)には織田軍の柴田勝家らによって城や砦を次々と奪われ、ついに石山本願寺が降伏。一向宗徒の勢いは完全に止まり、最終的に尾山御坊も陥落した。
こうして加賀一向一揆の時代は終焉を迎えたのである。
最後まで抵抗していた一向宗徒は白山麓で1582年(天正10年)まであらがったが、3月には鎮圧されてしまった。
この結果、一向宗は薩摩藩や人吉藩などで三百年にわたり禁教となった。
加賀一向一揆は、大名にとって宗教の恐ろしさが身にしみた一揆であり、後に家康は宗教勢力を封じ込めるため「諸宗寺院法度」を発布している。
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