戦局が激しさを増す中、梅丸楽劇団の舞台には、「挙国一致」や「堅忍持久」などのスローガンが並べられ、警察の指導に違反したスズ子は連行されてしまいます。
史実では、松竹楽劇団は「敵性音楽」のあおりを受けて解散。
鈴子のモデル笠置シヅ子は、「敵性歌手」のレッテルを貼られ、戦時中思うように活動ができませんでした。
今回は戦時中の「敵性音楽」や「敵性歌手」について、ジャズを中心にひも解いてみたいと思います。
当局による松竹楽劇団への締め付けと楽劇団の解散
昭和15年(1940年)2月、松竹楽劇団の拠点である帝国劇場は、契約期限が切れたため、東宝へと返還されます。
牙城を失った松竹楽劇団は、邦楽座を中心に渋谷松竹や国際劇場を巡回して公演を続けていました。
しかし、戦局が激しさを増してくるとレビューやショーに対する規制が厳しくなり、ジャズや流行歌の自粛が余儀なくされます。
当局による芸能界への締め付けは一層厳しくなり、劇場や映画館は警視庁によって規制されるようになりました。
昭和15年(1940年)10月、松竹楽劇団は苦肉の策として「轟け凱歌―世界の行進曲」と銘打ち、行進曲をスイング調にアレンジした歌謡ショーを上演。シヅ子はジャズ風の『双頭の鷲の下に』をソロで歌いました。
ちなみにこの頃、松竹から東宝の手に渡っていた帝国劇場は、内閣情報部の庁舎となっています。
情報局の検閲指導もより厳しさを増し、公演の曲目にまで口を挟むようになります。
ジャズは禁止され、ドイツやイタリアの枢軸国や日本の曲を8割使用するよう要請されました。
服部良一は、ベートーベンの『運命』やシューベルトの『野ばら』をジャズに編曲し披露しましたが、情報局から非難されてしまいます。
客足が遠のく中、試行錯誤を繰り返し公演を続けていた松竹楽劇団ですが、時勢には抗えず、昭和16年(1941年)正月公演をもって幕を閉じました。
「敵性音楽」とは?目の敵にされたジャズ
昭和15年(1940年)内務省と文部省が「流行歌排除、制作禁止」の通達を出し、同年10月には「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもと、ジャズバンドの活躍の場であったダンスホールが閉鎖に追い込まれました。
※戦前のダンスホールについてはこちら
【ブギウギ】 美女と踊れて大盛況した戦前の「ダンスホール」とは? 〜借金で縛られていた女性ダンサーたち
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/75297/
昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まると、政府はジャズやハワイアンなどの米英音楽を「敵性音楽」とみなし、追放を発表します。
敵国の音楽は演奏することも鑑賞することも禁止。ラジオからは洋楽が消え、特にジャズは「敵性音楽」の最たるものと敵視されました。
さらに昭和18年(1943年)1月、米英文化撲滅の一環として演奏禁止曲が発表され、レコードの供出が命じられます。
当局は「敵性音楽」を追放するために、米英音楽レコード約1000枚のリストを作成。レコード店や喫茶店などの店舗だけでなく、個人に対しても所有する該当レコードをすべて供出するよう命じました。
ジャズバンドは、クラシック曲をジャズ風にアレンジしてレコード化したり、ライブで憲兵の見張りがない間だけアドリブを演奏したりして、なんとか難局を乗り切ろうとします。
しかし、戦況が悪化した昭和19年(1944年)6月、日本音楽文化協会から「軽音楽改革」の指示が出され、ジャズバンドやハワイアンバンドの編成が禁止されると、ジャズは静かに消えていきました。
「敵性歌手」のレッテルを貼られた笠置シヅ子
ジャズが「敵性音楽」とよばれるようになると、当代随一のジャズ歌手・笠置シヅ子は「敵性歌手」のレッテルを貼られ、排除の標的とされました。
その頃、内務省の管理下にあった警視庁が劇場や映画館の監督を行っており、警視庁に呼び出されたシヅ子は、トレードマークの3cm付けまつげもハイヒールも派手な衣装も化粧も禁止。
「激しく動き回る歌い方は戦意を喪失させる」と言う理由で、ステージ上に1メートル四方の白線を引かれ、その中で動かずに歌えと指示されました。
観客がシヅ子に求めていたのは、パワフルな歌声や縦横無尽に動き回る底抜けに明るいステージパフォーマンスです。
派手なメイクや衣装を身にまとい、ノリのいいジャズを聞かせる歌姫。それら全てを封印されてしまったシヅ子は思うように歌えず、観客の期待に応えられないという窮地に陥っていました。
「敵性語」の排除運動-「サキソフォン」は「金属製品曲がり尺八」
昭和17年には、「文化浄化」の名のもとに、「敵性語」の排除が叫ばれるようになります。「敵性語」とは敵国由来の外来語です。
民間主体で始まった運動を政府が利用する形となり、それまで浸透していた英語由来のカタカナ語の使用が禁止されました。
音楽の世界も例外ではなく、「ドレミファソラシド」は「はにほへといろは」となり、レコードは「音盤」に。
「サキソフォン」は「金属製品曲がり尺八」、トロンボーンは「抜き差し曲がり金真鍮喇叭(ぬきさしまがりがねしんちゅうらっぱ)」といった具合で、覚えるのも大変そうです。
またレコード会社もコロムビアは「日畜(にっちく)」、ビクターは「日本音響」、ポリドールは「大東亜」、キングは「富士音盤」へと社名変更を余儀なくされました。
さらに芸名までもが対象とされ、ディック・ミネは「三根耕一」へ。ダンディーなおじさまから普通のおじさんにイメージも変更されたのです。
ただし、こうした無理やりな言い換えは国民に浸透せず、日常会話で敵性語の排除は徹底されませんでした。
参考文献:瀬川昌久『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』.清流出版
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